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【短編小説】 桜を見に

「桜を見に行かないか」
 そう言った彼の頬には少しの赤が走っていた。
 私の知っている桜の時期とは少し外れていると思った。けれど、彼の頬を見逃せなかった私は、つい勢いで頷いてしまったのだ。
 ぎこちなく挨拶をして、車に乗って小一時間。「今日は天気がいい」だとか、「最近は仕事が暇だ」とか、どうでもいい話をした。どこにも舞い散る桜の姿を見ないまま、今は、大きな公園の片隅で温かい珈琲を片手に並んで座っている。
「立派な幹だね」
 私は素直にそう思った。目の前に広がる桜並木は、両手を広げても届かないほど立派な幹を持つ桜がいくつも立ち並ぶ桜の名所のようだった。桜の木は確かにそこに在った。蕾をポン菓子のように膨らませて、今か今かと春を待っていた。
「そこから向こうまでずっと桜が植ってる。春になれば、ここら一帯は本物の花吹雪が舞うよ」
 彼は珈琲を持った手の人差し指で桜並木を指差した。規則的に並んだ立派な幹が、切り揃えられたところから不規則に逞しく枝を伸ばしている。
「そうなんだ」
 私は肺一杯に空気を吸い込んで、空にすうっと吐き出した。その空気は、澄んだ匂いがした。
「ところで、『桜を見に行く』のはこういうことで合ってるの?確かに、桜は桜だけど」
 彼には珍しいことだけれど、もしかしたら時期を間違えたのかもしれない。そう思った私がちらっと彼を見てそう聞くと、彼は一瞬真顔になった。その後、ゆっくりと桜に視線を移して、口を開いた。
「……満開になるのが楽しみだ」
 年季の入った木のベンチの上で、彼と私の指先が重なる。彼は私よりも体温が高いと思い込んでいたけれど、その指は私よりも冷たかった。骨張った彼の小指に捕まえられた小指の先が、遠慮がちにきゅっと結ばれた。
「見に来ないか、一緒に」
 にこりともせず問う彼の姿に、私の体の中でじわじわと熱を持って膨らんだ期待が、ポン菓子が弾けるように大きな音を立てて弾けた。
「……か、考えとく……」
 外気に晒されてひんやりしていた頬が、内側から熱を持って火照る。
「ん。期待して待ってる」
 春は、手を伸ばせばすぐそこだ。

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