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わたしが創作を続ける理由

たしか、小学4年生の頃だったと思う。
母から、耳の垂れた犬のキャラクターともぐらが描かれたピンク色のノートをもらった。

なにがそんなに自分を高揚させたのか、今になってみると疑問でしかないのだけれど、わたしは幼ごころに思ったのだろう。

"このノートに、いっぱい物語を書こう" と。

これは後から気がついたことだが、そのキャラクターはフジテレビの公式キャラクターだった。つまりはもちろん、名前も、ちゃんとした設定もある。

けれど、そのノートに書き始めた物語は、表紙に描かれた犬〈ヒポ〉ともぐらが、日々の生活に起こる様々なハプニングを乗り越えようとする(いかにも小学生が考えそうな)友情物語だった。

大人になってから、幼いわたしが〈ヒポ〉と名付けた犬の名前が〈ラフ〉という名前だと知った。

なんだ、小4のわたし、惜しいじゃん。
カタカナ2文字ってところまで合ってるじゃん。
てか、ずっと犬だと決め込んできたけど
よく見るとこれ犬で合ってる?
違ったらごめんなさい、フジテレビさん。

そう思った。


それで、つまるところ何が言いたかったかというと、わたしはその頃から0から1を生み出すということに魅力を感じていたんだと思う、ということだ。

(世の中に溢れる情報のなかには、物語を紡ぐことは0から1ではない、といったような意見もあるけれど、今は省略させてほしい)

頭のなかにあるものが、目に見えるものに変化していく、ということがシンプルに楽しかった。

物語だけじゃなく、絵を描くのも好きだった。


ちょうど〈ヒポ〉ともぐらの物語を書くようになったころのこと、図工の時間にかさこじぞうの絵を書くコンクールのようなものがあった。
その時、クラスで一番、絵を書くのが上手な子の絵を見て衝撃を受けたのを今もはっきり覚えている。




ーーーーエ゛ッ、ちょっとまって、上手すぎ。



ここで卑屈なわたしだったなら


わたしにはあんなの描けない、むり


と、なるのだが、
小学生のわたしはどうやらまだ柔軟だったらしい


あの横に並んでも恥ずかしくないくらい、
絵、上手くなりたい


と思った。






それから5年。

月日は流れて中学3年生の卒業する頃
学校文集の表紙に、わたしの絵が選ばれた。

オッシャ、やったぜ。
わたし、絵、上手くなったぜ。

その頃には彼女の絵と自分の絵のレベルがどうこうではなく、単純に自分自身の成長に喜びを感じるようになっていた。

できなかったことができるようになる、って
上手くなりたいと思ったことで結果がでる、って

こんなに嬉しいんだ。

なんて思った。

ちなみにそれからさらに3年後、高校の美術室の前に貼られたポスターで、"かさこじぞうの彼女"の絵が全道コンクールで大賞に輝いているのを知った。

「人よりちょっとだけ上手にできること」に気づいて、本人自身がそれを「自分の強み」だって思えた瞬間から、その能力ってどこまでも開花していくんだな、と気がついた出来事だった。



わたしはひとりっ子だということもあって、のびのびと好きなように、好きなことをして育った方だと思う。兄弟がいる友達を羨ましく思うこともなかったわけじゃないし、今だっていたらよかったなと思うこともある。

だけど、自分の感性を自由にいろんな方面に制限なく発揮してこれたのは、まちがいなくわたしがひとりっ子だったからだと思う。

父、母。
たぶん、わたし、小さい頃から
変なこといっぱいしてたよね。
自分で作った物語に、自分でコメントしてみたり。
自分で作った漫画に、自分で読者ハガキのコーナー作ったり。(小学生とはいえ、痛い)

だけど、そんな自由人なわたしに
うるさい、とか
恥ずかしい、とか
それ変じゃない、とか
いいかげんそんなことやめなさい、とか
そういうことなにひとつ言わないでくれて
まーたなんかやってる、って
いっつも笑って見守ってくれて
ありがとう

そうやって馬鹿にしたりせずに
やさしくみまもっててくれたから
自分で自分の才能の芽をつんだりしないで
今もこうして物語を紡ぐことを
楽しむことができてるんだと思う

だから本当に、ありがとう

今は、そんなふうに思っていたりする。


話は少しだけ前に遡るけれど、今年のモノコン2022が終わった。去年はチーム戦で予選通過、今年はコインランドリー部門で優秀賞という結果だった。

嬉しい、という感情で胸がいっぱいになると同時に
やっぱり諦められないな、と思うきっかけになってしまったと思う。しまった、というのは悪い意味じゃないけれど、なんとなくその表現が自分のなかでしっくりきているから許してほしい。

ここ数年、何に作品を出しても結果が出せなかったということもある。自分の文章で評価してもらえたといえば、高校生の読書感想文の全道優秀が最後だった。それから、文章や物語に関するコンテストに出しては落ちてばかりいた。一次すらも通らないから、下読みの方にすらみてさえもらえてないんだと、勝手に落ち込んだ。

大学生になって何か物語を書いても、いまいち納得がいくものができず、完結させることもできなかった。それでも書くことの楽しさを忘れることができなくて、今も当時書いていた未完の作品がパソコンには眠っている。

就職する、となったとき、文章や創作に関わる仕事は避けた。気にはなるから目に入っても、仕事にはしないと決めた。

好きなことを違う角度から続けることで、嫌いになってしまうことが怖かった。

この辺の悩みや葛藤は、先日投稿した「何にもない今から」にも表れているような気がするので、お時間がある方は読んでみてもらえたら、泣かないけど喜ぶ。(ばか正直)



このエッセイは、たぶん誰かの役に立つものじゃない。どちらかというと、わたしのためにわたしが書いている節がある。でも、100人いたら1人に届いたらいいなと思って書いている。

諦めなかったらいいことあるよ、なんて言わない。
努力は必ず報われる、なんて言わない。

ただ、「自分が他の人よりちょっとでもできるな」と自負できるものがあれば、それは必ず大きく育つ種になるから、大事に大事にしてあげてほしいなと思う。

たとえ、一回捨ててしまったとても、またそっとすくいあげて水を注いだら、ひょこっと芽を出してくれたりするから。





最後に。

わたしがなぜ、monogataryのほうで似たようなタイトルのお題にこのエッセイをのせなかったか、という点にふれて終わりにしたい。

それは、単純に、"モノカキでありつづける"自信がないからだ。

もしかしたら、いつの日か書くことに対してパキッとこころが折れてしまうかもしれないし、別な創作に魅力を感じて、物語を書くことを意図的にやめてしまうかもしれない。

年齢を重ねるごとに大事なものが増えて臆病になるから、断定表現が怖いというのもある。


だけど、それでいいような気がしている。


人は、毎日本当にたくさんの情報にふれて、いろんや人と意見を交わして生きているから、今日と明日で考え方が変わってあたりまえだと思う。

だから、これを読んでくれているあなたも
かくいうわたしも
自分のことを変にせめたりせずに
心地いいな、と思えるものを摘み取ったり
植え直したりしながら生きられたらいいね
なんて思う。

創作を続ける理由があるとしたら、
自分がそのことに心地よさを感じるかって
ことなんじゃないかなあ

わたしは今、物語を紡ぐことですごく
心が満たされるから、これからも、いや
とりあえず明日も、創作が好きだと思う。




もし、ここまで読んでくれたひとがいたら
それはもう本当にありがとう。

またnoteが書きたくなったら、戻ってきます。
最新の物語を添えて。


大雨の日曜日に.2022.11