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「白い皿」 12月

「白い皿」12月

今年最後の「白い皿」のディナーは
いつもと同じ7時からの始まりで
キリストの生誕を祝うこの月は
夜の「白い皿」もいつもと違っていた

いつもの暗い廊下を抜け
扉を開けると
夜の「白い皿」の室内は
いつもより暗く
むしろ蝋燭の明かりが
ついた廊下よりも暗くて
その事が私に一瞬洞窟の暗さを思わせ
いつもと違う様子の暗さに
私は確かめるように

つい
いつも見上げてしまう
天蓋の蓋を開け放したような空を
縁どる暗く覆うざわつく木々の黒い影は
燦然と輝く
白い月明かりを太陽
のように欲しがる
亜熱帯の伸び上がる樹樹の葉でかき消され
部屋の暗さか見づらく見上げていると
しだいに目の慣れてきた私に
(何処からどう運んできたのか)
その樹樹の間から見える調度品等は
奇妙な感じで

いつもの夜毎の月色がみせるスープに
暖炉にくべられていた石が
目の前の白い皿に
置かれていく側から肉が乗せられ
焼き色をみせる音をはじめに
真綿色の骨髄に
添えられたジャガイモのクッキーに
薄淡いピスタチオのソース
アーモンドのオイルに
巻きつかれた肉の味わいに
色鮮やかな鳥の羽根の匂いモ強く
アボカドとバターのミルクのソースを与えられ
栗と苦く刻まれたナッツのサラダに
何処かに熱帯の熱の匂いを思う中
寒さに凍える窓や風の音
群生する樹樹の葉擦れの音は
毛モノ達の声のように思えるせいなのか
私の口元に小さい笑を造らせ
暖炉にくべられてゆく木に
赤く焼きついてゆく火に
暖炉の側で焼けた肉を剥がされていく骨に
あれは? 

私達の目には冬のジビエでしかなく

どんなに
来慣れたようには思ってはいても
非日常の
夢のような感じは
体内の血を沸かせ
目は他人の皿へとへばりつきながらも
一皿ごとに
口の中に
しがみついてくる肉の香りは甘く
体の熱が上がってくるような感覚の中

キリストを祝うこの生誕の月に
ツリーも七面鳥もない事は
私にとっては喜びに近く
血のりと合わせられたソースの行方に
舌鼓をしながら...、
いつも、いつも
頭の何処かで警鐘のようになり響く
そんな声さえも楽しくあった


今年は、なぜか雪が多かった。
去年の終わり頃から降り出した細かな雪が、新年にも続いて。
幾日も、幾日も、それは珍しい事だった。
ニュースで何か言っていたようだったけれど、覚えてはなかった。
けれど、交通に影響のある程のものではなく、降ったりやんだりで。

今、私は、会社の友人と旅行に来ていた。
最初、頼に話をふったのだけど、今年は休みが取れなくて、今年は無理と言われて、2人で行った場所だから、もう一度行きたいなと思った願いは
叶わなかった。

そして、私と友人は今ちょうど、その旅館へ通ずる道路に面した、旅館の戸口のない門の前に立っていた。

この場所は、駅から徒歩で10分と遠くなく、元々この街は山を切り開いて造られていて、旅館は山を利用した街の高台にあり、山の樹林に囲まれた造りとなっている事が、私には、その旅館が何かわからないもので守られているように思えていた。

その空間は、時期が春であるならば、ほどよい桜をみせ、時折と枝を嫌って振り落ちるような桜の花びらや、春の風と舞うかのように向かってくる花びらは、人を誘うかのようでいて、この長い道のりを見えぬ女人に手を引かれるように苦もつかせず歩かせるような所から、人に、ここを「山谷の館」とも言わせていた。

けれど、今は冬。
木々はあっても桜はない。
あるのは、木々の枯(カ)らげた景色を柔らかく見せる降り積もった雪と、細く降り散る雪だった。

私が、前来た時は春だったと、頼と来た時の事を思い出しながら、雪も悪くないと、寒いだけでと、その寒さも悪くはないと思いながら、友人と声少なに寒いねとか、綺麗だねと言いながら歩いていた。

前に来た時は、この旅館の料理は桜懐石で、
今日の、この月は雪懐石で、私は全てを白く見せるものだと思っていた。

大方な想像はつく。
薄白い衣(みぞれ、大根おろし)をかぶせた蒸し物に、薄く皮を剥がされたお造り、身をソがれ盛り付けられる鮟鱇の肝に、山の神様の肉を刺身で出すのか、焼いて出すのか、冬眠を許されずに眠りにつかされる動物たちは苦肉の策のように添えられ、野菜で魅せられてゆく..... 。
大体そんな所で.... 、
山の物、
海の物、
全て愛でたく使われる。
最後には雪白いデザートでも出てくるのだろうかと考えていた時、私はふっとっ升に雪を白く詰めたものでも出てくるのだろうかと思ったり.... 。

ここの旅館は、料理が日、一日と違っていて、ひと月もいれば万華鏡を見ているような物と評されていた。
私も、ここにせめて2、3日といたいけど、今回も1日で、凍えるような寒さの中と思っても、肌で消えてしまう雪の冷たさは柔らかく、緩い坂と階段で組まれた長い雪道に、私も友人もしだいに寒さから目を落として歩きながら、私はどうしてだろうって思っていた。

寒さと雪道の大変さもあって、声少なであって、友人と一緒にこうして歩いているのに、会社の出来事に煩わしいとさえ思っていたそんな毎日の日常や、家族との会話、すでにこうして来ている友人との旅行も、そんな側から、昨日迄の日常が、
今迄の私の日常が全て、小さな夢のような感覚で私の中で生きているような感じで、今迄の私の日常が全て、小さな夢のような感覚で私の中で生きているような感じで、それでいて昔懐かしいと思うような所に行きたいような私に不思議でいて、あんなに気になっていた双子の話も気にしなくなっていた事に気がつくのと同じに、思い出した事が一つあった。


屋敷の使用人達が来たくない理由のもう一つ、それは広間の高すぎる位置に飾られた歴代の肖像画。
見上げると、見下ろされているようで気味悪がっていた使用人達の恐怖を自分が知っている事や、屋敷の中を白い寝間着でうろつき回っている主人を見た事があるように思うのは気のせいと思っても、ざわつくような感慨が、私の中でアルバムの写真のような記憶ようになっているようで、この雪の中、緩(ゆる)く組まれた坂は平になり、庭園の雪と寒さで凍りついた鹿威しを目にした時、友人と目を合わせた。

友人との旅行は満足のいくものだった。
夜の「白い皿」に比べたら、どこか少し不満を残したものであっても..... 。
家の近くの駅に着いた時、私は本当にそう思っていた。
今まで、何処で食事をしても満足がいく事はなかった。
(あのローストビーフの店を除いては)
帰り、観光も兼ねて電車に乗る前に友人とお昼に入った店はつまらなかったけれど、いつもなら
我慢できないに近いのに.... 。
あの旅館のどこまでも透(トオ)った料理のおかげだと思う。

それは、素材を鮮明に見せる料理で。
夜の「白い皿」は、素材の解らない所があった。
だから、今まで食べ比べてみたいのもあって、色々食べに行っていた。
(それは、今だにで)

けれど、料理法や飼育が違えば味も違うし、部位によっても味わいは違ってくる。
それに、食べた事のない物ならば、1、2度食べたからと言って、解るものではない事も解っている。

それに、夜の「白い皿」では、1度として
同じ味に出会う事はなかった。
その月毎に、いつも何かが違う。
同じ物ではあるとは思うけれども....。
何かが、いつも違っていた。
それとも、
違っているように思うのか.... 。

だから、こんなに夜の「白い皿」が気になって
仕方ないのかもしれないと思っても、また、それだけでも無いように思っても、何が解るわけでもなく、少し前から食事前の私は、体の中から
不思議な感じが上がってきていた。

それは記憶が感覚を、感覚が記憶を消していくような、うまく言えないよく解らない感じは、今では食事の前以外でも時々あるようになって、それが嫌かと言うとそうではなく、そんな日々に、夜毎見る月に、月の満ちる日を迎えるたびに、
後2回、後1回と「一足ごとの恐怖」を思って過ごす日々は速く、気づくと何の感慨もなく、私の最後の「白い皿」のディナーは、今日終わった。
・・・なんの感慨もなく。
私は、次もまた行けれると思っているのだろうか.... 。
貰う事のなかった次回の招待状に、何も思う事はなかった。
・・・何も。

それからの私は、今迄、私を大きく虜にしていた
夜の「白い皿」の、この1年の毎日充実した感じは、不思議にもなんて小さな毎日であったと思えていて、でも、この一年でクセづいたほぼ週末毎に通う昼の「白い皿」に、会社が終わってからのスポーツジムに、主食の肉や果物に塩味の味付け、下手をすれば果てしなく飲む水の毎日は楽しく、続いていた。

なのに、私を解放に導いた「一足ごとの恐怖」は、まだ、終わらないでいるようだった。
何故か。
そう何故か、仕事の合間につい見上げてしまう空に...。
見上げる度に、昼間の明るさに沈む事が許されないように長く浮いている白い月が.... 。
夜毎の待ち人を思うかのように減っていく月.....。
どうして、そう思えてしまうのか.... 、
頼の肩越しに見える宵闇にと混じれない白い月と同じように、私は、夜の「白い皿」に行きだしてから買った指輪を窓から見える月に手を伸ばすように月と見比べてはほくそ笑み、会社の帰り道、
雲間にとのぞく毎日の月に.... 。
古来から月の魔力とされている満ちてゆく月に...。
私は「白い皿」を訪れていた。
永遠の一枚の花びら
でありたいかのように...... 。


end


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