19.ロンダー・パステルのゼルジー

 ロンダー・パステル行きの電車の中、ゼルジーは「木もれ日の王国物語」と書かれたノートに目を落としていた。別れ際、リシアンからもらったものだ。
 向かいに座っているパルナンは、声をかけようとして、そのほほにまだ涙の跡が残っていることに気付き思い直す。ゼルジーはノートを見ていたものの、読んではいなかった。つい、いましがた別れたリシアンのことを思い返しているのだ。
「ああ、ゼル。向こうに帰っても、わたしのことを忘れないでね」出発の直前、リシアンは花壇の前でそう頼んだ。
「もちろんよ、リシー。当たり前じゃないの!」ゼルジーは思わず歩み寄り、リシアンを固く抱きしめる。「この冬休みには、絶対にロンダー・パステルに来てね。『スズラン』で特大のイチゴのパフェを食べるのよ。それから、町中のいろんなところを案内してあげる。いいこと? 絶対よ」
 リシアンもぎゅっと抱き返すと、ついには感極まってしまい、わんわん泣き出してしまった。ゼルジーも同じように声をあげて泣き、驚いたクレイアが飛び出してくる始末。
「あらあら、今生の別れというわけでもあるまいし」そう心の中でつぶやきながらも、ふと昔のことを思い出す。「わたしも、妹のセルシアと離ればなれになるときは、いまのあの子達のようだったっけ。でもね、どんなに仲がよくたって、別れはいつか来るものなのよ。それだって、やがて時が解決してくれるものだけれど」
 パルナンとゼルジーがロンダー・パステル駅を降りると、母セルシアが迎えに来てくれていた。
「まあ、あんた達。しばらく見ないうちにずいぶんとたくましくなったわ!」セルシアは心からびっくりして2人を見比べるのだった。
「ぼく達、すっかり日に焼けたけれど、出発前と何1つ変わっちゃいないよ」パルナンはそう言ったが、魂の成長というものは本人には自覚の出来ないものなのである。
「この夏は、決して忘れることの出来ない印象深いものになったわ」ゼルジーもしみじみとうなずく。
 3人は家路に向かって歩き始めた。道すがら商店街を見ているうち、だんだんと懐かしい気持ちが湧いてくる。
「あそこのパン屋、いつもいい匂いがしていたっけね」パルナンが言うと、
「そこのスーパーマーケット、お母さんとよく買い物に来たなあ。野菜売り場や肉売り場のこと、隅から隅まで思い出せるわ、わたし」ゼルジーの心も、次第にソームウッド・タウンから引き戻されてきた。
 家に到着すると、ゼルジーは玄関の前で立ち止まって大きく背伸びをする。
「ああ、やっぱりうちっていいわ。ソームウッド・タウンにいた頃は、まるで向こうが天国のように思えたけれど、自分の家に勝るものはないわね」
「うん、ぼくも同感だよ、ゼル。ずっと向こうにいたいと考えていたけど、それは違った。ここに帰れて本当にうれしいんだ」
 ゼルジーは自分の部屋へと駆けていき、荷物を置いた。机もベッドも、記憶にある通り、何もかも昔のままだ。初めのうちこそどこかよそよそしく感じられたが、やがてそれも消え、長らく空けていたことがうそにさえ思えてきた。
「さっきまでリシーと過ごしたことが夢のよう。でも、すべて本当のことなのね」独りつぶやいて、リュックをまさぐる。「木もれ日の王国物語」と書かれたノートを手に取り、じっと見つめた。それこそは紛れもなく、ゼルジーの過ごしてきた夏休みの証なのだ。
 次の日学校へ行くと、仲のいい友達がゼルジーの元へ集まってきた。
「夏休みどうだった? どこかへ行った?」
「わたしは海に3回も行ったのよ。ほら、こんなに日焼けしちゃった」
「よその国へ行ってきたわ。そこは夏なのに涼しいところでさあ、夜になると暖房を焚くの」
 ゼルジーはその1つ1つに答えたり、自分の話をしたりしながらも、もしもここにリシアンがいてくれたなあ、と思わずにはいられなかった。
 リシアンも今頃は向こうの学校で、こうして友達と楽しく話しているに違いない。自分の知らない、仲のいい別の友達と。
 そう考えると、胸の奥に鈍い痛みのようなものが湧き上がってきた。それがなんなのかわからず、どうにも滅入ってしまう。これまでに経験したことのない苦い気持ちだった。
 半日授業から家に帰ると、少し遅れてパルナンが戻ってくる。
「久しぶりの学校はどうだった?」パルナンが聞いた。
「友達とたくさん話をしたわ。みんな、それぞれに自分だけの思い出を作ってきたのね。わたし、自分だけが大冒険をした気になっていたわ」
「楽しかったなあ、今年の夏は」パルナンが懐かしむように言う。
「うん、これまでの中で最高だった」そうゼルジーもうなずいた。
「ロファニー兄さん達と山で見つけたカブトムシ、あれはデパートなんかで売っているやつよりも、ずっと立派で大きかったよ。こっちでは、お小遣いで買えないほど高いんだぞ。その話をしたら、みんなうらやましがってたっけ」
「1匹くらい、持ってくればよかったのに」
「いいんだ。1度は捕まえたんだし、それで満足さ。前にも言ったろ。虫達にとって、生まれたところにいるのが一番幸せなんだ。ぼくらだって、こうして自分の住む町に帰れて、うれしいと思ったじゃないか」
 昼ご飯を食べたあと、ゼルジーは自分の部屋でいつもそうしていたように、空想ごっこをしようとした。クジラになって海の底深く潜ったり、親切な宇宙人と出会って銀河の彼方へ連れて行ってもらったりと、およそ現実からかけ離れた想像を巡らてみる。
 ところが、どれもなんだかつまらなく感じてしまうのだった。
「どうしたんだろう。前は夢中になりすぎて、パルナンにからかわれるほどだったのに……」
 ゼルジーはそのわけをとっくりと考える。ようやく出た結論は、いつもかたわらにいたリシアンがいないという事実だった。
 1人でする空想ごっこは、つくづくつまらないものだ。そのことに気付くと、ゼルジーは急に悲しくなってしまった。自然と涙が頬を伝い、ついにはしくしくと泣き出してしまう。
 ノックがして、パルナンが入ってきた。おやつのショート・ケーキを持ってきたのだ。
 けれどゼルジーの泣いている姿を見て、顔を曇らせた。リシアンのことを想っているのに違いないと察し、ケーキの載った皿をそっとゼルジーの前に置く。
 妹の切ない思いを、パルナンもよくわかっていた。自分だって、本当は泣きたいくらいソームウッド・タウンが恋しい。
 パルナンは、あえて元気な声で話しかけた。
「なあ、ゼルジー。このケーキ、お母さんが駅前の店で買ってきてくれたものなんだぞ。ほら、いつものあのケーキ屋さ。お前、好きだったじゃないか。さ、一緒に食べようよ。おいしいぞ」
 ゼルジーは言われるまま、ケーキを食べ始める。甘いホイップ・クリームが口の中いっぱいに広がった。
「わたしね、リシーと約束したの。冬休みにあの子がこっちへ来たら、『スズラン』でイチゴのパフェを食べようって」
「冬なんてすぐだよ、ゼルジー。そうしたら、ロファニー兄さんやベリオス兄さん、それにリシアンだってやって来るんだ。また、みんなで空想ごっこをしようよ。そうさ、ちょっとだけ待てばいいんだ。『ちょっと』だけね」
「そうね、パル。冬なんて、寒いから来てくれなくてもけっこうよって、断ったってやってくるんだものね」精一杯の強がりを言う。
 けれど、ゼルジーにとってその「ちょっと」は、果てしなく遠い先のことに思えるのだった。

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