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【エッセイ】先読み能力 いらない説

目の前に海がある。水着は持っていない。
持っていたとしても、海には入りたくない。

「今更海に入るとかは、ちょっと…」

海沿いに住んでいるクセにインドア派を気取っている私のような人間はこの時期になると大体こんな気持ちを抱いている。

しかし、「海が嫌いか」と問われると間違いなく「いいえ」が正しい。

私だって昔は人並みに海で遊んでいた時期を通ってここまで来ている人間だ。友人との相撲で海に投げ飛ばされ、財布やケータイが流されかけた思い出は宝物と言って差し支えない。

それでも今更私が海に入るのは何か違うと身体は言っている。水着は丁度いいものがある。やりたいという気持ちも持ち合わせている。それでもそんな元気は起きない。

よくよく考えると、目的もなく海に入ることで何か良いことなど起きるわけが無いように思える。

20年とそこらの私の人生経験が「お前帰りの靴とか服とかはどうする気なの」とか「帰った後洗濯めんどくさいよ」とか囁く。ついでに「あそこ物価も高いし」とかも言っている。

理性はずっとこの調子だ。本能の方を向いてみても「クラゲ怖いし」とか言っている始末。

これが私の悪癖。あまりにも悪癖。

行動の前にその最低値を想起してしまうので一通りの後悔の過程を心の中で済ませてしまう。

嫌な記憶を基盤にした先読みが意図せず起きてしまうのだ。

これで海に入る元気を出せという方が難しい。

後悔を先読みしたところで、自分が嫌な気持ちになっているところを想像してしまった瞬間に結局同じことなのにも関わらず、全て終わったあとの後悔と引き換えに目の前にある一瞬の楽しさを失うことは果たして幸福なのか。

海にクラゲが居るなんて考えず、海水がベタつくことなど二の次で、砂のことに至っては頭にすら無い状態で水着だけを持って出かける。
そんな幸せを私は手放し続けている。

こんな事を書いていても私は今一向に目と鼻の先の距離にある海に入る気にはなれない。

海をただ眺めているだけの時間は海洋という暴力を目の前にした今この瞬間の選択肢として死から最も遠い気がする。そんな理由を付けてまで動きたくない。

だから私は、もうしばらくは身体にへばり着くクラゲや砂や海水とも縁は無いのだろう。

特別幸福にはなれないかもしれないが、今更悪い気はしていない。私が近い未来の幸せから遠ざかったことはもう見えている。

一通りの後悔はこれからする。いらないのに。

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