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父の手袋

 寒い日が続いた。どんよりと雲が立ち込める朝だった。ぼくと父はほとんど同じ時刻に家を出て、父は会社へ、ぼくは小学校へと行っていた。その朝も、ぼくと父は朝の身仕度を済ませて、ちょうど同じタイミングで玄関に出た。マフラーを首にグルグル巻きにしているぼくを見て、父は自分の手袋を差し出した。革製のかなり年季の入った手袋だ。ぼくは手袋をしていなかった。
「持って行け」と父は言った。父は寡黙な人だった。それだけ言って、ぼくに手袋を渡すと、父はポケットに手を突っ込んで行ってしまった。
 父の手袋をぼくは手にはめ、学校へ向かった。大きくてブカブカだったけれど、とても暖かい手袋だった。
 学校の手前で、ぼくは手袋を外してコートのポケットに入れた。手袋はぼくのような子供がするには少し、年寄り臭いデザインだったから、それをしているのを級友に見られるのが嫌だったのだ。あるいは、悪ガキに見られていたらからかわれたかもしれない。
 学校はその日一日何事もなく終わった。下校の時、ぼくはコートのポケットに手袋が入っていることを確認し、そのままポケットの中に入れておいた。帰りは級友たちと途中まで一緒だからだ。
 級友たちと他愛もない話をしながら、ブラブラと下校した。小石を蹴っ飛ばしたり、植え込みの葉を意味もなくむしりとったりしながら。級友たちは誰一人として手袋はしていなかった。両手を擦り合わせたり、息を吐きかけたりしていた。そして、級友たちと別れる分岐点に来た。適当な挨拶をして、ぼくらは別れた。ぼくはコートのポケットから、手袋を取り出した。ぼくは息を飲んだ。手袋が片方しかないのだ。右手の手袋しかない。頭が真っ白になった。学校を出る時に確認したらあったのだ。それが、無い。無くなるはずがない。ぼくはそれを一度も出していないのだ。何かの弾みでポケットから落ちたのか。ぼくは来た道を急いで取って返した。
 日はかなり暮れ始めていた。厚い雲が空を覆っていたため、夕陽は見えなかった。ただ、徐々に暗くなるだけだ。どのような道を辿って来たのか、どんなことをしたのか、記憶を辿って思い出そうとした。記憶のどこかに手袋を落とした気配がないかと期待して。だが、どこにもそんなものは無かった。ぼくは気が付かないうちに手袋を落としていた。級友たちと一緒にいた時にした馬鹿馬鹿しい話がなぜか悔やまれた。そんな話などしていないで、しっかりと手袋を握り締めておけばよかったものを、と思った。ぼくは必死で手袋を探した。とにかく地面ばかり見て歩いて、すれ違う人など目に入らなかった。父は手袋を無くしたことを知ったらなんと言うだろう。怒るかもしれない。父は手袋を大切にしていたに違いない。何か思い入れがあるかもしれない。あれだけ年季の入った手袋だ、それが無いとは思えなかった。それをほくは無くしてしまったのだ。ぼくは不安に苛まれた。
 来た道を戻り、気付けは学校まで戻ってしまった。すでに日は落ち、辺りは真っ暗である。ぼくはそこまで来ても無くなった手袋、左手の手袋を見付けられないでいた。校門は閉ざされてしまっていた。学校のどこかに落としたのかもしれないという疑いもあったが、それを確かめる術はなかった。仕方がないので、また道を引き返した。ぼくが一度下校した道だ。それでもやはり手袋は見付からなかった。
 ぼくは途方に暮れた。もう一度学校まで戻ってみるか。時刻はかなりおそくなっていた。車が脇を脅すように抜けていき、固く冷たい風が頬に当たった。ぼくは泣き出したかった。それはなんの解決にもならないだろうが、そうすることで何かが溶けていくようにも思えた。しかし、ぼくは泣かなかった。ぼくは家の暖かさを思った。凍えそうに寒かった。さらに探し続けることも考えたが、諦めて帰ることにした。もし父が、手袋を無くしたことについて怒ったり、落胆したりしても、それを甘んじて受け入れよう。それはぼくの不注意から出たことであり、ぼくが責任をとらなければならないのだ。
 そう決意したにも関わらず、家のドアは普段よりも重く感じられた。
「ただいま」
 遅かったものだから心配していたのだと母は言った。父は何も言わなかった。ぼくが手袋を片方無くしたことを打ち明けると、父は「そうか」と言っただけだった。それは許しだったのか、ぼくにはわからない。

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