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9年後のカンボジア旅行記 はるばる来たぜシェムリアップ前編 タナカダイスケ

いまから遡ること9年前の5月、ぼくタナカダイスケと同人誌「無駄」のメンバーである竹内くん、シュウハヤルヤマの3人で旅行をした。行き先はカンボジア。その前年、竹内君とシュウはふたりでインド旅行に行っていた。格安航空券で行く青春的旅行である。1週間ほどの旅行のその珍道中の顛末は彼らの帰国後居酒屋で面白おかしく聞かされ、ぼくも「いいなあ」などと言ったのだろう。9年前だ、ぼくらも若かった。とはいえ、その時すでにぼくは30手前だったけれど。まあ、若いと言えば若い。いつだって、振り返ったところにいる自分は若いのだ。

で、その年もインドに、今度はぼくも一緒にということになった。考えてみると仲の良い三人である。ズッコケ三人組か、乱太郎きり丸しんべヱか、年齢差はカラマーゾフの三兄弟と同じ、カラマーゾフでいうと、ドミトリーがダイスケ、イワンが竹内、そしてアレクセイがシュウの三人組である。

インドに、と言っていたのがカンボジアになったのは、その時期の航空券が手に入らなかったからだという。伝聞なのはすべての手配を竹内君がこなしてくれたからだ。持つべきものは友である。

かくしてカンボジアに行くことになった。理由は航空券の関係だけという、なんとなくの旅である。一ノ瀬泰造に顔向けできないような理由である。関係ないけど、竹内君は一ノ瀬泰造にちょっと似ているな、顔が。

カンボジア、と聞いて何を思い浮かべるだろうか。まあ、アンコールワットが妥当なところだろう。これは高校で学ぶ世界史の教科書にも出てくるし、場合によってはテストにも出る。世界遺産の寺院である。一ノ瀬が内戦のカンボジアに足を踏み入れる動機の一つでもある。

内戦。ぼくのいちばん古い記憶にあるカンボジアの情報は内戦についてだ。とはいえ、それは細かな情報、シアヌークやポル・ポト、クメール・ルージュといった事情ではなく、テレビに映し出された髑髏の山だった。比喩表現でも何でもない、人の頭蓋骨が山のようになっている映像が、まだ幼かったぼくの触れたカンボジアについてだった。

それはTBSのブロードキャスターだったように思う。おそらく90年代の前半、すでにカンボジアの内戦は終結し、ポル・ポトたちの蛮行が世界に露見した頃のことだ。ポル・ポトたちが権力を握っていた間、多くの人が虐殺された。理由は知識人だから。それだけで殺される理由になった。医者や教師、技術者が殺され、文字が読める、時計が読めるということで殺された。あるいは眼鏡をかけているというだけで殺された。若い皆さん、そんなことがこの地球上で起きていたのですよ。ほんの50年前に。詳しいことはリンク先で。

内戦の混乱は20年に及んだ。そうして混乱が終わった20年後にぼくらはカンボジアを訪れたわけだ。航空券の値段の関係で。

さあ、成田からひとっ飛び、というわけにはいかない。シンガポールでトランジット、そして安いには安い理由がある。シンガポールのチャンギ空港にぼくらが降り立ったのは深夜、カンボジアのシェムリアップ空港行の便は朝なのだ。安いのはこの接続の悪さのためである。ぼくらは空港で一夜を明かすことになる。

成田からチャンギは8時間ほど、チャンギからカンボジアのシェムリアップ空港までは3時間ほどだったように思う。チャンギ空港は素晴らしい空港だったけれど、その椅子は寝るには硬すぎてぼくは一睡もできなかった。それはそうだ。椅子は眠るために設計されていない。
ちなみに竹内君は飛行機が苦手で、離着陸時には隣にいる人間の手を握る。

かくしてカンボジア到着。降り立ったのは首都プノンペンではなく、アンコールワットの近くのシェムリアップ空港。一週間の旅程は、まず前半はそこでアンコールワットをはじめとする遺跡を巡り、後半プノンペンに移動するというザックリしたもの。しかも、シェムリアップからプノンペンは長距離バスを使う。しかも、チケットは現地調達。もちろんホテルも手配していない。現地調達だ。

空港にはタクシーが待ち構えている。おそらくどこの国でもそうだろう。日本だってそうだ。コスプレイヤーの周りにカメラが集まるようなものだ。シェムリアップ空港からシェムリアップの中心街までは少し距離がある。観光客向けのタクシーがいるのだ。

ここで竹内君とシュウは警戒心を募らせる。なぜなら、彼らは前年インドに赴き、そこで幾度となく騙されそうになったからだ。インドではすきあらばボッタクろうとしてくるらしい。その経験から、カンボジアのファーストコンタクトも警戒心満々だ。が、拍子抜けするほどにカンボジアの人たちは優しい。すごく親切だ。実はその親切の裏側に、というどんでん返しも無く、純粋にみんな親切なのだ。

というわけで、ぼくらがタクシーをお願いしたのはアンくん。確か30歳くらいとのこと。コンピュータの勉強をしていると話してくれた。

「君たちはラッキーだよ」と彼は言った。ぼくらがそうして旅行をし、自分の知らない世界を見られることを言っていたのだと思う。それに、30歳と言えばカンボジアの混乱の時代も子供の頃に経験しているはずだ。ぼくらは間違いなくラッキーなのだろうと思う。
とはいえ、こうした考えにちょっとした独善的なものを感じてしまうのがぼくのひねくれたところである。少なくとも経済的な面で恵まれた立場からの論評だとしたら、それは独善的だと思う。可哀想な他者を想定することで、それで慰められるのは独善的だ。おそらく、絶対的な不幸など存在しない。あるいは絶対的な不幸があるとしたら、それはぼくらが絶対的には幸福でも不幸でもないことだろう。それを確かめるには誰かと比べる他なく、たとえ相対的に恵まれていたとしても、比べた瞬間にそれは不幸だ、と思う。
そんなことは考えなかったかな。
少なくとも、端的に言って安全な水や抗生物質に簡単にアクセスできる環境は幸福だ。
まあ、いい。

アンくんはホテルも紹介してくれた。もちろん警戒する竹内君とシュウ。しかし、そこも良心的である。少なくとも、ぼくらの財布に大打撃を与えるようなことは無い。さらに、アンくんは観光のためのトゥクトゥクも手配してくれた。それは彼の弟、まあそれはいいじゃない。

弟君の運転するトゥクトゥクでぼくらはアンコールワット周辺の観光することになった。シェムリアップは日本でいうなら、うーん、京都?的なところなのだろうか。寺院の遺跡が集まった場所で、ちょっと走れば遺跡がある。

あ、トゥクトゥクとはこういう乗り物。

5月でもカンボジアはとにかく暑い。トゥクトゥクは開放感があって、風が気持ちいい。これでいくつか遺跡を回った。『地球の歩き方』を見ながら。だから、その時はその遺跡の謂れやらなんやらを確認したわけだけれど、今となってはサッパリ覚えていない。まあ、そんなものだ。

これも観光地にはつきものの物売り。カンボジアだと子どもが売っていることが多い。このあたりも考えさせられる部分もあるが、それすらも独善的な考えなのかもしれない。

そして、アンコールワットへ!

この当時アンコールワットは補修中。だから青い布のかかった部分がある。ただ、壮麗であることにかわりはなく、ここがこの寺院群の中心なのがわかる。

これはカンボジアに限ったことでなく、日本でだって体験できることだけど、空が広かった。広い、というより、近い。近くて大きい。
こうして一日目を終え、二日目の朝を迎えるのだけれど、その時衝撃の一言を発する男が。その名は竹内。
「遺跡とか、もう飽きませんか?」
え?ここ、遺跡しかなくね?

というわけで、今回はここまで。意外と長くなりそうだし、実はプノンペンに行ってからの写真がどこかにいってしまった。とりあえず、来週にはシェムリアップ後編を。

つづく

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