見出し画像

いななき

 男が昼食を摂り、カウチでうとうとしていると、どこかで馬がいななくのを聞いた。辺りを見回したが、そもそもそんなことをする必要は無かったのかもしれない。男がいたのは牧場などではなく、都会のど真ん中、マンションの一室だったのだから。もちろんどこにも馬の姿は無かった。馬のイメージ、例えば絵に描かれた馬や彫刻すら無かった。男の生活はとことんまで馬とは関わりが無く、そもそも男は馬が好きとか嫌いとかも無く、興味が無いどころか、そんなものが存在することさえ忘れかけている有り様だったのだ。
「今、馬が鳴かなかったか?」男は近くにいた妻に尋ねたが、この時に言った「馬」という言葉だって、久しぶりに使ったものだから埃を被っていたくらいだ。実際、男はその言葉を口にする時、イントネーションにかなり気をつけて発音した。
「いいえ」妻は首を横に振った。「どこかのテレビの音じゃない?」
男の目の前に据えられたテレビはついておらず、黒い画面は覗き込んだ男の顔を鏡のように映している。耳を澄ますが車のクラクションがかすかに聞こえるだけだ。
「気のせいかもな」と男は呟いた。
「疲れているのよ」男の妻は言った。
 その晩、男は妻の勧めに従って早めに床に就いた。しかし、なかなか寝付けない。何度も何度も寝返りをうち、生欠伸をしぼり出しても、いっこうに眠気がやって来なかった。やっとのことで、眠気の尻尾を掴み、そっとそれを引き寄せ、うつらうつらし始めた時に、また、いななきを聞いた。それは錯覚などとは言えないくらいはっきりしたものだった。男は跳ね起きた。暗い部屋、時計が時を刻むのが聞こえる。馬などいるはずがない。しかし、馬が鼻を鳴らすのが聞こえる。それも耳元で。男は思った、もしかしたら、馬は自分の中にいるのではないか?蹄が大地を蹴る音がした。それは男の顎を通り、首を抜けて、みぞおちの辺りまで行って止まった。そして、そこでいななきを上げる。間違いない、と男は思った。馬は自分の中にいるのだと。
朝、男はそのことを妻に言うかどうか迷った。まず第一に、こんなことは信じてもらえないだろう。それにこれはかなり個人的なことだ。個人的なことであっても、個人的なことだからこそ話すべきなのかもしれない、そうも思った。夫婦関係においては、そうした個人的なことを共有すべきなのではないか。しかし、結局は話さないことにした。妻には話さない。誰にも話さない。そう決めた。
 その日から、男は毎日夢を見るようになった。夢の中では、男が馬の中にいた。馬は荒野を駆け回っていた。男はそれを馬の中から感じていた。実際に目にすることは、馬の中からではできないのだが、目で見るように感じられた。広く、青い空を眺める。白い雲が漂っているのが見える。地平線、遠くに山脈が見える。
 男は馬の中にいる時に幸福だった。男が男である時については、男は何も語らなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?