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簡単な世界

 ある青年が井戸を覗き込んでいた時の話だ。
 あまりに身を乗り出していたものだから彼は井戸の中にまっ逆さま、落ちてしまった。ドボン、水しぶきを派手に上げ、さらに悪いのは、青年はカナヅチで、少しジタバタ水面を叩いただけであっさり沈んでしまった。助けを呼ぶ悲鳴を上げる暇さえなく。だから、誰も青年が井戸に落ちたことになど気付かなかった。
 暗く冷たい水の中を沈みながら、こんなにあっさり人生は終わってしまうのかと青年は思った。なんて簡単なんだ、と。
 青年が観念しようと目を閉じた瞬間、あまりにまばゆい光が瞼を透かして青年を驚かせた。次に驚いたのは沈んでいたのが止まったこと、足の下で支えるものがある。
 青年は恐る恐る目を開いた。井戸の中、暗く冷たい水の中にいたはずなのに、青年は地面に立って暖かい日差しを浴びている。ずぶ濡れではあるけれど。
 そして、青年は理解した。そこは簡単な世界なのだ。なぜ青年がすぐに理解できたかと言うと、それはそこが簡単な世界だったからだ。簡単な世界ではすべて簡単だから、青年はそこが簡単な世界であることをいとも容易く、簡単に理解したのだ。
 簡単な世界では、どんな事柄でも簡単に達成できる。例えば、大金持ちになりたいと思えば、簡単にそうなれる。権力者になりたいと思えば、簡単にそうなれる。それどころか、美人や男前になりたいと思えば、それだって簡単なれてしまうのだ。
 青年は簡単に男前の大金持ちの権力者になった。美しい妻をめとり、娘と息子に恵まれた。その過程は書くまでもないくらい簡単だったので書くまでもない。
 別に簡単な世界の人々の能力が低いだとか、やる気が無いだとかではない。断じて違う。ただ簡単な世界では世界が簡単なのだ。
 満ち足りた生活をしていた青年はふと苦労がしたくなった。青年がもともといた世界では簡単には達成できないようなことがあまりに簡単に達成できてしまって、青年は物足りなさを感じたのだ。もちろん、そこは簡単な世界なので苦労だって簡単にできた。青年の物足りなさは癒されなかった。いや、それも本当は簡単に癒された。それが簡単に癒されたことも青年は不満だった。しかし、その不満も簡単に消えた。
「退屈だな」青年は妻に言った。
「そうね」妻は簡単に頷いた。
「本当にそう思っているのか?」
「ええ」
 青年はもともといた世界に帰ることにした。妻も子供らもそれに簡単に従った。そして、青年は家族を伴って簡単な世界を後にした。

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