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内気な男

 彼はとても内気な男だった。それはまだ子どもの頃から変わらない彼の性向だ。幼いころからひとり遊びを好み、同年代の子供たちの輪に加わろうとしない。ひとりで積み木を重ねていて、他の子がそれに加わろうとするとそそくさとそこを後にした。公園の遊具では絶対に遊ばない。滑り台も、ブランコも、彼は一度もやったことがなかった。
 学校の授業中に教師に指名されても、何も答えられない。算数でも、国語でも、理科でも社会でも。ただ黙って、首を横に振るだけだ。
 教師も、クラスメイトも、彼が暗愚なのだと考えた。算数の問題はその答えがわからないのだろうし、国語の教科書を読み上げるのは字が上手に読めないのでできないのだと、そう考えた。
 しかしながら、彼は答えがわからないわけではない。答えはわかっている。彼の知能は周りにいた子どもたちに抜きん出ていた。控え目に言っても天才だった。本来ならば、飛び級をしていてもおかしくないほどだ。彼が指名されても何も答えないのは、答えがわからないからではない。答えなんてとうにわかっている。しかし、彼が内気だから、それを答えないだけなのだ。ただ、恥ずかしいから。
 そうして、彼は成長した。内気なままで。生来の性向がそうそう簡単に変わるものでもない。内気な彼は、テストで必ず悪い点数をとった。自分が何かを知っているということを見せるのが恥ずかしかったのだ。知らないと思われることは彼に羞恥を催させはしなかった。彼は自分が知っていることを知っているのだ。彼にとっては、それで充分だったのだ。だから、毎回のテストで悪い点数をとっても、いっこうに彼にそれを恥じる様子はなかった。それで叱責を受けるようなことになることもあったが、それも彼にとっては問題ではなかった。それは身を強張らせて固まっていればいずれ過ぎ去って行く嵐に他ならない。彼には自分が受けるであろう賞賛が想像できた。しかし、それをどう受けたらいいのかが彼にはわからなかった。それならば、暗愚と思われた方が良い。彼はそう判断した。そして、彼は暗愚だと評価された。
 暗愚だと認識された彼は学校でも、社会でも隅の方へ追いやられた。簡単な、誰にでもできる仕事をあてがわれた。彼はそれを黙々とこなした。高性能コンピュータに簡単な足し算をさせ続けるようなものだ。高性能コンピュータも彼も文句を言わない。高性能コンピュータには文句を言うということが考えられないし、彼は目立たなければそれでいいと思っていたからだ。
 ある時、彼の職場で彼が昼食をとっていた時、食堂でテレビに映し出された数式、まだ誰も解いたことのない問題、を見たあと、彼はしばらくひとりでぶつぶつ何かを呟いていたことがあった。周りに人は居なかった。言うまでもないだろうけれど、内気な彼には友人などいないのだ。そうして、何事かをひとしきり呟くと、彼はニヤリと笑って立ち上がり、食器を片付けた。彼が呟いたのはその問題の解だった。その未解決問題の。
 彼はそうして世間の片隅で生き、死んだ。彼の残したものは僅かな衣服と食器だけだった。彼は暗愚として生き、暗愚として死んだ。


No.574


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