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写真

 父が死んだ。母はすでに他界していたから、肉親と呼べる人間はいなくなった。これで天涯孤独の身だ。それはそれで気が楽かもしれない、と思った。
 一人で住むには家は広すぎた。売りに出して、どこか手頃な部屋を見付けて越すことにした。古い家だから、買い手がつくだろうか、と一抹の不安はあったが、案外すぐについた。たいした額ではなかったが、それでも思っていた額よりはかなり大きい。
 買い手とは一度だけ顔を合わす機会があった。中年の男で、しきりに改装のプランを話していた。父の建てた家。ぼくの育った家。
 それからは後片付けに追われる日々だった。物のそんなに多くない家だと思っていたから、簡単に済むだろうと高をくくっていたが、とんでもない、連日汗みずくになって整理をすることになった。
 たいていの物は処分することにした。これからの生活に必要なものだけを残し、売れるような物は売り、売れない物は捨てた。たいていの物は捨てることになった。
 家を空にし、明け渡す前日、何か忘れた物がないか最後に見て回りに行った。翌日から、家は他人の物になる。
 父の部屋だった部屋の前を通りかかった時、人の声を聞いた気がした。不動産屋でも来ているのかと思ったが、耳を澄まして声を聞いてみると違うようだ。買い手の男のそれとも違う。こんな空っぽの家には泥棒だって入るまい。しかし、確かに声はする。父の部屋だった部屋から。どこか聞き覚えのある声のような気もしたが、それが誰の声なのかを言い当てることができない。とにかく、恐る恐るそのドアを開けることにした。
部屋には誰もいなかった。しかし、それでも確かに声がする。備え付けの戸棚からだ。ラジオでも忘れたか、と思った。何かの拍子で電源が入ったのかと。
 戸棚の引き出しを開けると、ラジオはなく、一枚の写真があった。白い枠の中に、女、いや、少女と言っても通じるだろうか、緊張した面持ちでこちらを見ている。笑おうとしているが、笑おうとしているせいで上手く笑えていない顔。じっと見ていて、それが死んだ母の若い頃であるのがわかった。目元に面影がある。
 声は写真からしていた。微かな囁くような声。母の声だが、それは聞き覚えがあるものより高くて若い。もう一人の声、父の声だ。それも知っているのよりも若い。二人は話していた。
「写真って苦手」と母が言う。父が笑う。
「こっちを見て」
「どこを見たらいいかわからないわ」
「レンズさ」
「それ?」
「そう」
「なんか落ち着かない」
「未来の人間、例えば君の息子を見詰めるつもりで見てごらん」
「え?」
「この写真はもしかしたら息子が見るかもしれない」
「娘かも」
「そうだね」
 そして若い母はこちらを真っ直ぐ見据えた。先ほどのおどおどした様子が消えたように感じた。
「ほら、僕らの息子が君を見てるよ」
「ホントね」
 二人は話していた。 楽しそうに。
 ぼくはそれを胸のポケットにしまい、そこを後にした。

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