この世が見るに堪えない残酷な世界であることを悟った彼女は二度と目を開けないことを心に誓った。そして、長いまつげの生えた瞼をそっと閉じた。
彼女の周りの人間、特に彼女の母親は、彼女のその決意に困惑し、嘆き、最後には怒った。彼女はお針子として家計を支える立場にあったからだ。
「目をつむってちゃ仕事ができないじゃないか!」
「大丈夫よ、お母さん」彼女は言った。「目をつむっていても、わたしは仕事ができるわ」
そういうので、針と布を手渡すと、いつもと変わらぬ様子で縫い物をして見せた。彼女は優秀なお針子だった。仕事はすべて指先が覚えていたのだ。
「ほら、大丈夫でしょう?」
「でも、あんた」と彼女の母親は言った。「それじゃあ、家事はできないだろう」
彼女は家の掃除、洗濯、炊事すべてをこなしていたのだ。
「大丈夫よ、お母さん」彼女は言った。「目をつむったままでも、家事はできるわ」
そういうと、洗濯をして見せ、料理を作り、家の隅々まで掃除をして見せた。
「ここにゴミが残ってるよ」彼女の母親はそう言った。
いいえ、お母さん」彼女は言った。「そこはちゃんと掃除しましたから、ほこり一つ落ちていないわ」
彼女の言う通りで、そこにはほこり一つ落ちていなかった。彼女の体は家事の仕方を覚え込んでいたのだ。
「ほら、大丈夫でしょう?」彼女は言った。彼女の母親は何も言えなかった。
こうして、彼女は目を閉じたまま生活を始めた。周りの人間にとって、何も変わるところはなかった。彼女はそれまでと同じように働き、家事をしたからだ。違うのは、彼女が目を閉じていることだけである。
彼女の意志は固かった。それは端的に彼女の固く閉じられた瞼に表れているだろう。彼女はどんなことがあっても目を開かなかった。誰かが美しい虹の空にかかっていることを言っても、花の芳しい香りにも、急に肩を叩かれて驚いても、子供の泣き声が聞こえても、真夜中に女の悲鳴が聞こえても、飛行機の轟音が聞こえても、爆弾の炸裂するのが聞こえても、人々泣き喚くのが聞こえても、決して彼女は目を開かなかった。
そうして彼女は生きた。それは心安らかな人生だった。食べ、働き、寝る、誰もが送るようなごく普通の人生だった。
そうして年老いた彼女はついに今際の時を迎えたのだった。その頃には彼女には身内の人間はいなかったから、それを看取るのは看護婦一人きりだった。
「わたしはもうすぐ死ぬのね」彼女は言った。看護婦は何も答えなかった。
「わかってるのよ。長く生きると、色々なことが分かるの」
看護婦は何も答えなかった。彼女は不安になった。それまでの人生で感じたことの無い不安だ。看護婦はどこかへ行ってしまって、誰にも看取られず、死ぬのかもしれない。彼女は初めて孤独を感じた。
「誰もいないの?」
返事は無い。
「返事をして」
「いるよ」それは聞いたことのない声だった。しかし、彼女はその声の主を知っていた。知っているというのは正確でないかもしれない。それを彼女は常に既に理解していたのだ。それは神の声だった。
「わたしはここにいる」神は言った。
彼女はそれまでずっとつむっていた目を見開いた。神の姿を一目見たかったのだ。無限の光が彼女の目を射した。そこには誰もいなかった。ただ、世界があったけだ。残酷でいて、それでも素晴らしき世界が。
そして彼女は死んだ。

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