境界心中【オリジナルSS】

境界心中

彼はごく一般的な常識を持った真人間だった。それと同時にどうしようもない屑でもあった。

「皐月くん、もう私頑張れないよ…。今日まじで怖かったんだから…。」

「ごめんな、俺が遅すぎた。今度は絶対まりんのこと助けに行くから。だから一緒に頑張ろう?」

何度も何度も同じように宥められ、彼は優しく私の頭を撫でた。私はお金のために汚い親父どもの「案件」に出向かう頻度が増えたが、心を保つための薬代もアフピル代も馬鹿にならなかったからもう辞めたかった。彼は仲間とタイミングを見計らって現場に乗り込み、慰謝料をぶん取る計画を立てながらも上手くいくことはほんの数回で、私はやられ損になることも少なくなかった。辞めたくても辞められないのは、私が彼のそばにいる理由を失いたくなかったからだ。

この界隈に混ざるようになってから2週間が経った頃、私は当時の友達に無理やりお酒を飲まされそうになって、それを止めてくれたのが皐月くんだった。彼は界隈ではちょっとした有名人で、界隈ではらしくない服装だったし、髪も染めていない、ピアスも空いてなければタトゥーも入ってない、この場所にいなければ誰もが真人間だと思うような人だった。ただ、彼を覆い尽くす憂いた雰囲気だけはこの場所によく似合っていた。私はあっという間に彼に惹かれ、ハマってしまった。「皐月くんと付き合う女の子はみんな5月に死んじゃうんだって」なんて噂もあったけど、彼の優しくて危ういところが好きだった。

4月の終わり頃から彼は口数が少なくなったように思う。そして私以外の女の子と一緒にいるところが多く目撃されるようになった。

「ねぇ、なんで浮気するの…?」

「ごめん、寂しくて。」

「…私がいるじゃん。」

「まりん、俺怖いんだよ。」

「なにが怖いの?」

「俺、もうすぐ誕生日なんだ。それが怖い。」

何を言っているのか理解に苦しんだが、彼は本当に怯えた様子で親指の爪をガチガチと噛んで鳴らしている。真っ黒な髪がかかる目元からはうっすら涙すら見える。彼はおもむろに私の両腕を掴み、弱々しい声でこう言った。

「俺、大人になりたくない…。まりん、助けて…。」

界隈に出入りする子なんてみんな年齢が曖昧で忘れていたけど、確か彼は今19歳のはずだ。次の誕生日で20歳になる。思えば彼は強烈に「大人」を嫌っていた。親の話なんてもちろん聞いたことはない。つるんでいるのはいつも年下の子ばかり。彼が忌み嫌う大人に自分が近づくこと、それが彼を脅かしているのかも知れない。

「皐月くん、私になにか出来る?皐月くんこと助けたい。」

「…俺と死んでよ。誕生日が来る前に。まりんも大人になんかなりたくないだろ…?」

「そんなこと言わないでよ。死ぬなんて…。」

「まりん、よく死にたいって言うじゃん。それに、俺は今のままのまりんが好きだよ。好きなまま、幸せなまま、一緒に死のう…?」

彼は私を抱きしめ、耳元で優しく囁く。確かにそれも悪くない。こんな汚い社会で自分を削りながら生きてたって、救われることなんかきっとない。それはわかっていた。私はそっと、彼を抱きしめ返し、決意した。彼を救えるなら、彼と一緒にいられるなら、それがいいんだって。

「屋上行こうよ、いつもの。」

涙ぐむ彼の手を引き、薄汚れた街を歩く。いやに眩しいネオンと街灯、耳を劈く(つんざく)はしゃぎ声。この街ともおさらばだ。私は彼を連れて、この街のシンボルとも言えるビルの裏手に周り、外階段を上る。何度も事故があったのに、このビルだけは屋上を封鎖しない。でも不吉すぎて溜まり場にもならない。私はここが好きなだった。初めて彼と会ったのも、この場所だったから。そういえば初めての出会いのとき、彼の第一印象は確か、「死神」。屋上の際に立つ彼の姿は妙に清潔で、なんの匂いも感じなくて、少し前かがみな姿勢を足元から照らす街の灯りが、彼の輪郭を映し出していた。ちょうど、今みたいに。

2人で手を繋いで立って、下を見下ろす。心臓が強く鳴るけど、もうそれもどうでもよかった。彼のほうに目をやると、彼は虚ろな目で私をじっと見つめていた。さっきみたく小さな子どものように、怯えてなんかいない。私は屋上から飛び降りるより、今の彼のほうが怖かった。

「俺にはまりんしかいないんだな。…みんな先に死んじゃうんだよ。一緒に死のうって約束したのに。」

怖くて、声が出ない。すると、バッグから着信音が聞こえてきた。お客からの呼び出しか、仲間からかはわからない。それは一度止み、もう一度鳴り始めたところで、私は我に返った。

「ごめん、皐月くん…。」

私はその場から逃げ出した。ふらふらだったけど、階段を駆け下り、街の中を脇目もふらず走った。彼から少しでも離れたくて、それから街に行くこともなかった。

あのビルの屋上から、また飛び降りてひとりの女の子が亡くなった話を耳にしたのは10日後のこと。20歳を迎えたはずの皐月くんの行方は、わからない。

End.

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