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「ジェネレーター 学びと活動の生成」をよんで、


「ジェネレーター」という本を読みながら、気になったフレーズと、そこから湧いてくる声を書き記していこう。


「探求」「中動態」「コラボレーション」等のキーワードから、これからの社会の鍵となる新たな学び、生き方のスタイルを提案!

という帯の言葉がまず、ぐっとくる。

「ジェネレート」とは「生成する」ということです。「生成する」のは、「生きている」ということにほかなりません。

それは手法に合わせて考えを整理したり、あらかじめ目的を明確にしてそれに至る手段を逆算して計画をたてて進んだりするものではありません。

「なんとなく変だなあ」「気になる」「面白そう!」そういう感覚でモノ・コト・ヒトを追いかけて探索し続けていく、そんな生き方が「ジェネレーター」のあり方です。

意味がありそうだとか、自分の関心に繋がりそうだとか判断せずに、気になった「雑」を何でも集めるのです。ひとまず集めちゃう。そこから全ては始まります。

あちこち飛躍し、無関係なことと重ね合わせる流れに身を任せ、ああでもない、こうでもないと面白がるプロセスに遊ぶ。

雑を集め、雑談し、雑記し続けることを愚直に積み重ねるのです。こうして培われた知のネットワークが「ジェネレーター」の礎となり、偶発的に出「遇」う事象を見逃さない芽が育ち、こうしたら面白くなるのではという反応力を高めるのです。

何かを自分有りに作り出して生きる創造的な暮らしでは、素人であり、初めて何かに挑戦する人たちどうしが小さな仲間となってプロジェクトに取り組んでいかなければなりません。この点においては大人も子供も同じ立場。教師と生徒という固定的関係性もありません。お互い学び合い、教育し合うスーパーフラットな関係性。全てはこの「あり方」の上に築かれます。

【湧いてくること】
・ファシリテーターという役割として、…という前提から自分の一側面だけを場にだそうとすることへの違和感。特に、「この役割を担っているのだから、何かを与えるべきなのだ」という考えへの違和感。その考えによって、本来もっているはずの力が発揮できなくなるもどかしさ
・「お金をもらう側」「払う側」という立場・構造の違いから感じるぎこちなさ、かたさへの違和感。


第一部 ジェネレーターの誕生


創造的コラボレーションの担い手・ジェネレーター

ジェネレーターは内側に入って、共に活動する

「ジェネレーター」とは一緒に参加して盛り上がりを作る人だ。ファシリテーター的な役割としてみんなを巻き込んでもりあげてゆくが、自分も参加者であるというところが最大の特徴と言って良いだろう。


そもそも何かを「ジェネレート(生成)」してゆくということは、固定的な何かを見るのではなく、物事の生成・変化に向き合うことだ。そして、そのように生きることだ。自らも「生成のプロセス」に没入し一体化するので、ジェネレーターは「ジェネレーター」と呼ぶのが適している。

従来の教育現場では、外側から知識を伝達するという発送が主流であった。それは「存在  being」か「生成   becoming」かといえば、「存在」を重視する考え方だ。もともとあった知識を対象とする個人の脳内に「移転する」のが教育であり、「その場で生まれる」とは捉えない。しかし、「生成」という観点からヒトの学びを見れば、自分の中に内在する何かが動き始め、生まれ続けていくという考え方になる。部分と全体が共に変化し、システムが常に生成的であると考える。

ジェネレーターの素晴らしさは、社会的ステータスや肩書を持たず、何かに守られていない、強者ではない立場でありながら、今を生き生きとしていられることなのだ。何かを発見して、そこから仮説をつくり、アイデアをつくるのを面白がり続け、自然の中を歩いたり、ネコや鳥や虫や花たちと対話して俳句を作ったりして、ジェネレーター人生を歩んできたからこそ、社会関係に疲弊することがないのである。多少社会を斜に構えて見てしまう反骨精神があるのは間違いないが、それ以上に大いなる世界に包まれている感じがして、ヒトだけの世界でなにか嫌なことがあっても、そんなこともあるさ、とどこか吹っ切れているのだ。

何かを自分でつくるのは、時間も手間もかかるし、面倒くさいかもしれない。反面、思い切って常識を手放せば、自分らしい生き方ができる。一人で頑張らなくていい。弱みも見せていい。むしろ素になって、さらけ出すからこそ創造のコラボレーションに没入できる。

宮崎駿さんと養老孟司さんが「虫眼とアニ眼」のたいだんのなかで、学校で書かれた子供の作文をみてゾッとしたというエピソードについて語っているところがある。ゾッとしたというのは、子どもたちが書いた作文には人間関係のことばかり書かれていて、人間関係の社会の外側には、自然も含めた世界があるのだが、そこへの眼差しや実感が損なわれてしまっている。そんなことだから、いつも人間関係にばかり気を使っていて、みんな息苦しくなるし、いじめも生まれ、学校に行きたくなるというようなことになる。

僕は庭で一年中、いくつもの野菜を育てているが、そうすると植物だけでなく、虫や土や風にも接し、日々自然を感じている。本来、こういう自然というものの中に、人間は生きているのである。人間関係に疲れると、庭に出て手入れをする。それはとても豊かな世界との関わりとなり、自然の中に生きる生物としての自分を取り戻すことができる。


【湧いてくること】
・「自分の中に内在する何かが動き始め、生まれ続けていくという考え方」になにかがすごくヒットする。「部分と全体が共に変化し、システムが常に生成的であると考える。」ってどういうことだろう・・・

・「その場で生まれてくることを共に体験する」という感覚がすごくわたしのなかでも大事にしていることにきづく

・「人間関係に疲れると、庭に出て手入れをする。それはとても豊かな世界との関わりとなり、自然の中に生きる生物としての自分を取り戻すことができる。」→最近、特にこのような体験がふえてきていると共に、この体験を潜在的に必要としているひとの多さを感じる

第二部 ジェネレーターの役割


相手を巻き込むためにまず自分が引き受ける。率先して「変だ」と思われる姿を晒す。それこそが「S=Show」ということだ。正しい知識・やり方をかっこよくスマートに「見せる」ことではない。むしろその逆で、「ジェネレーター」は大失敗する姿とか、うまく行かない姿も含めて「さらけ出して見せる」ということが重要だ。ともに失敗をさらけだし、自分も他人も責めず、前向きにふるまう勇気を持って、仲間とチャレンジする。失敗を糧にして、別のやり方が工夫できるのではないかと諦めずに取り組む姿を「見せる」ことが重要なのである。

【湧いてくること】
・ときによって、自分の「プライド」や「かっこつけたい」「こういう存在だと思われたい」という考えがかたく存在して、この生き生きさが現れてこない感じがする。一体どんなとき、どんな場で、どんなことがわたしの中の「失敗をみせないようにする」を生んでいるんだろう?


「ジェネレーターシップ」を発揮しているヒトの3つのふるまい

ジェネレーターはみえない成り行きを「GRASP」(共に見えない成り行きをつかもうとすること)しようとする感覚を持って動き出す。すると周りの人たちもジェネレートされて、みんながジェネレーターになってしまったようにみえる状況が生まれる。とはいえやはりジェネレートのとっかかりをつくる「ジェネレーターシップ」を発揮するヒトの「あり方」がとても重要になってくる。

わたしが気づいたのは、「ジェネレーターシップ」を発揮しているヒトは3つの振る舞いをしているということだ。一つは「やってみないとわからない状況で一報を踏み出す」こと。言い換えれば「不確実な状況を引き受ける」ということ。相手の気持ち・心情を引き受けるというより、ジェネレーターはその場の「状況」を引き受ける。みんながお互いの出方を伺っているような「状況」、あるいは、なんとなく緊張感がみなぎった「状況」で、その雰囲気を打破する「ふるまい」となる言動をする。

このふるまいは「楽しく面倒なプロセスを面白くしようとすること」という2つ目の「ふるまい」と密接に関連している。本当にうまいくいくのだろうか・・・どうしたらうまくいくのかわからない・・・こうした気持ちに支配され続けていると、どんどん場の雰囲気が硬直化し、この状況が続くと精神的にすぐ疲弊し、頭も重くなり、心身が不調になってしまう。

そのプロセスを前向きな場に変えてゆくには、その場をなんとか面白くするしか無い。それは「不確実な状況に新たな意味付けを行う」というふうにいえるだろう。

3つ目の「ふるまい」は「みんなで試し続け、つくりなおして発見をつみかさねること」だ。



不確実な状況を「Accept」するジェネレーター

ジェネレーターはやってみないとわからない不確実な状況を「引き受けて」いっぽ踏み出す。ジェネレーターがGRASPするための要は「Accept」というマインドセットにある。

「発見の連鎖」はこんなことをいって大丈夫だろうか?ということすらとりあえず「うけとめる」ことから始まる。ちゃんとしたことをおもいついてからではなくて、まずおもいついたことを表明してみる。

【湧いてくること】
・自分の中に余裕があまりなかったり、目的意識にひっぱられていると、「カオス」を歓迎したくない、秩序だって物事をすすめたい。と想うようになり、不確実な状況を「引き受けること」とか、「まずおもいついたことを表明してみる。」ができなくなりそう。→カオスから生まれてくる新たな可能性や創造性を面白がれる力や関係性がきも・・・?

したがってジェネレーターの「Accept」は相手への配慮や「思いやり」とはすこし異なる。一人ではできないことに取り組み、作りながら、みんなでその悦びを分かち合い、面白がるコラボレーションを活性化するには、どんな些細なことも見逃せないという思いが根底にあるから「Accept」する。


ひらめき・偶然はこころをオープンにして
没入したときに飛び込んでくるもの

ひらめきや偶然をキャッチできるのは、偶然を待つのではなくて、何かを生み出そうとするプロセスの場に没入し続けているからだ。いろいろなことをとりこみ、そこで感じたことを素直に表明する。あちこち発送が飛んだり、突然、うかびあがったように見えるので「偶」然に感じられるが「生成」の流れの必然の帰結にすぎない。なんとなる「感じた」ことを口にするには、一生懸命「感じよう」とするのではなくて、心をオープンにして、自ずと生まれてしまったことを受け止めることである。

【湧いてくること】
・山登りをしたり、フルパワーで遊んだり、田んぼの畦きりをするなかで、もしくはサウナ→水風呂→外気浴をしている中で、「からっぽ」になっていく、そしてひらめきや直感につながるという体験をしたことがある。なにも考えられないくらい身体をうごかす。呼吸をするくらいがやっとだというくらいのところまでいったとき、右足がいたい、とか首が熱い、とか身体の感覚だけにきづき、思考がとまっていく。そんななかで、ぐるぐるする思考のレイヤーから、ハラの感覚にチューニングされ、(無駄な考えが削ぎ落とされ)なにかひらめきや、本質的な声だけが聴こえてくる感じがする。

・頭優位で、感覚に意識をむけることが難しいというひと・もしくは状況においては、(例えば、NVCでいう「ニーズにつながる」の代わりに「ニーズを探す」感覚に迷い込んでしまうとき)何か、身体を動かして頭を空っぽにするのが役に立つのかもしれない。

ジェネレーターの生成の場となる ー 中動態としてしか表せない出来事

よく「ジェネレーターはいったい何をしているのか」「何をしたらジェネレーターということになるのか」と聞かれる。そう聞きたい気持ちはわかるが、じつはそのような問いはジェネレーターということの本質を捉えそこねている。ジェネレーターは生成をおこし、促すひとである。生成は行為ではなく、出来事だ。それは何をしたらどうなる、という話ではなく、そういう「生成が起きる」という出来事に関わるということを意味している。

そのような事態を捉えるためには、僕たちは自分たちのあたりまえになっている成約からいちど自由になる必要がある。そのためのキーワードが「中動態」だ。

中動態というのは、エミール・バンヴェニストの「一般言語学の諸問題」で論じられ、日本では國分功一郎さんの「中動態の世界」でひろく紹介され、脚光を浴びるようになった。

中動態とはどういうものなのか、ということなのだけれど、それを説明する前に知っておくべきことがある。それは能動態・中動態という組み合わせのときと、能動態・受動態の組み合わせのときには、おなじ「能動態」でも意味が変わってくるということだ。

能動態 / 受動態のくみあわせのとき、能動態は「主語のヒトがある行為をする」ということだ。これに対して、受動態とは「主語のヒトが、何かをされる」ということを意味している。

それでは、能動態 / 中動態 のときはどうなるのだろう。パンヴェニスとの「一般言語学の諸問題」によれば、能動態 / 中動態の組み合わせにおける能動態は、「動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程」を指すことになる。これに対し、中動態というのは「動詞は主語が、その座となるような家庭」を指し、その時「主語は過程の内部にある」ということになる。

このような中動態のことを理解するためには、動詞というのは古くは「行為」ではなく、「出来事」を表していたということを知る必要がある。

中動態が適している動詞には「生まれる」「眠る」「想像する」「成長する」「欲する」「畏敬の念を抱く」「希望する」「見える」「聞こえる」「抱き合う」「戦う」などがあるという。例えば「眠る」というのは、眠りが自分のところでおきているのであって、能動とか受動では表せないということがわかる。

ジェネレーターがおこす生成ということも、このような中動態であらわされるような事態なのだ、と僕は考えている。つまり、自分も場の一部となり、自分たちのなかで何かが生じてくる、成長し、何かが見えてくる、そういう出来事が生成=ジェネレートということなのだ。

最後にジェネレーターシップとは何かということをまとめてみよう。

ジェネレーターシップとは、出来事・物事が生成することに参加し、(主客・自他の協会をとかし、あいまいにしながら)そこで起きていることをよく見・きき・感じ・拾い上げ、その出来事の内側でその生成を担う一部となるということ、そして世界へのそのような関わり方である。

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