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あの日、娘は笑ったよね?

2010年7月20日、生後半年のももちゃんが天に昇る前の晩、はじめてわたしに笑いかけたんだよ、と言ったら信じてもらえるだろうか。

また今年も命日がやってくる。死んだ子の年齢は二十歳まで数えていいらしいので、14才の中3。人生でもっともダサい季節だ(そして毎年、誕生日より命日が色濃いのはなぜだろう。やはりそちらの方が強烈だったのだ)。

あの年の梅雨の方が激しかった気がするが、同じような暑さのなか、たしか前日に高熱を出したので、病院に電話して自宅の車で入院しに行ったのだった。もちろんそれまでと同じように数日で帰宅するつもりで。

産院である慶應病院の新生児科は一度退院してしまうともう戻れない。お腹にいたときから、羊水過多で2ヶ月も入院しそのまま出産となった病棟だ。少し振り返る。ももちゃんがまだお腹にいたとき、妊娠7ヶ月で羊水が多くなりすぎて緊急入院となった。ベッド上安静のひと月を過ごし、病院中を歩いて移動できるようになってから、お腹の張り止めの点滴ポールをガラガラと常に横に携えながら、羊水過多の原因を調べてもらうために、検査病棟でぱんぱんのお腹の中のMRIを撮ってもらった。妊婦でなくも、MRIは怖いが、赤ちゃんがいるとなると、わたしがパニックになったら赤ちゃんもつらいだろうということで、通常の10倍くらい平常心を保つために努力した。ほかにもいろんな検査をしたが、原因がわからず、羊水は一向に減らなかった。出産までそのまま入院し、赤ちゃんの大きさが充分に育ったので分娩しましょうという日、陣痛がマックスになっても、ももちゃんの心拍が下がってしまい分娩はとりやめになった。やはりももちゃんは元気がないのだなと分かり、後日、誕生日となった2010年1月21日、赤ちゃんに負担の少ない帝王切開となった。オペ室にはスタッフが10人くらいいた。麻酔、新生児科、外科だったかな。産まれてきてからも元気がなくわたしが先に退院した。ももちゃんは結局、生後1ヶ月くらいで退院したはず。そのときはX染色体の短腕が欠けているので将来赤ちゃんが産めないが、それ以外は問題なく成長できるということだった。生後2ヶ月の1ヶ月検診で病院に行ったとき、肺がゼコゼコしていると入院になる。おっぱいを誤飲して肺に入ってしまったらしい。数日後、遺伝子検査のドクターから血液からは検出されなかった遺伝子が口の粘膜から検出された。7番染色体短腕が他のところに付いていて、世界に5例しか報告されていないがみな生後半年で亡くなっていると説明を受ける。それからは口から飲んだおっぱいが誤飲で肺に入ってしまうおそれがあるので、鼻からのチューブで飲ませてあげることになったり、鼻水を引いたり薬を飲ませたりとなかなかハードな日々を送った。入退院を7回繰り返した。

あの日はももちゃんが半年になる前日だった。すっかり先生の説明された半年説は忘れていた。

当時、慶應病院では外来から来た赤ちゃんは、小児科か長期入院用の病棟かのどちらかに入院した。7度の入院でどちらとも経験済みだったが、小児科の方が明るくて好きだった。その日は小児科に。

大部屋が空いていれば安くすむのだが、個室しか空いてないことも度々あった。そうして、勝手知ったる小児科病棟での7度目の入院が始まった。

ちなみに個室料金は一晩二万一千円だったか、一万二千円だったか。あの頃のわたしの金銭感覚は太っ腹になってかなり狂っていた。さらに個室の場合は、親が宿泊する必要があり、簡易ベッドをレンタルして隣に寝る方式だった。

家に電話し入院になることを伝え、まだ2歳になったばかりの息子とも電話で話し、数日病院にいるからねと伝えた。あの頃はまだiPhoneでフェイスタイムが使えなく、息子はまだ妊娠期の緊急入院のひと月で完全に私の顔を忘れていたっけ。

と、話が長くなったが、入院して部屋に入り、いつものように2人で過ごしていたときに、それまで苦しそうにしていたももちゃんがこちらを向いて笑っているのに気がついた。んんん???2度見した。いや、5度くらい見た。ドキドキした。やっぱり笑っていたのだ。あれはなんだったのか。わたしの夢なのか。准看にきた看護婦さんにも、いま笑ったんですが。と伝えてみたような気がする。

そして、その夜、付き添いベットで寝ていたわたしが気がついたのか、看護師さんが気がついたのか。ももちゃんの呼吸が止まっていた。たしか、看護師さんだったと思う。そこからバタバタといろんな処置がされた。夫と息子も来た。葬儀屋も来たが断り、家の車で連れ帰った。家の布団に寝かせ、息子が添い寝していい時間を過ごした。息子もももちゃんもいい顔をしていた。

そうだ、ももちゃんは呼吸が苦手だった。酸素マスクをよくしていた。呼吸って難しいんだと知った。

産休が急に終わってしまったわけだが、勤務先の総務のお姉さんが落ち着くまで休んでていいと伝えてくれた。それから4ヶ月、休んだ。休んでヨガをして、ももちゃんが苦手だった呼吸をたくさんした。

ももちゃんが亡くなってから、遺伝子科の先生に呼ばれ、ももちゃんのケースを口膣内の唾液の中からは血液にはいない弱い遺伝子を検出できるという論文にして発表するので、わたしたち両親の遺伝子検査をしたいと打診される。もちろんウェルカムだ。ももちゃんが生きた証が少しでも増えるのは嬉しい。ももちゃんが誰か他の人の役に立ってくれるのもサイコーだ。なので、ももちゃんの功績でもある遺伝子検査に関する論文はいまもどこかで読めるはずだ。読みたいぞ。

それにしても生物の進化は、遺伝子のちょっとしたトライアンドエラーからここまできている。ももちゃんも進化しようとしたのだろう。空を飛べる人類がいてもいいじゃないか。水でえら呼吸できてもいいじゃないか。ももちゃんの勇敢さを讃えたい。検査の結果、わたしたち親の遺伝子はなんてことのない、つまらないフツーのものだった。

と、14年前の今日を振り返ってみた。たしかにあのとき、ももちゃんは笑ったのだ。本当に大人みたいな、何もかもこれでいいのだよ、みたいな顔をして。それまでももちゃんはずっと辛そうだったり、虚ろだったりしていたのだけど、急にこちらをしっかりと見て笑っていたのだ。ありがとうね、ももちゃん。あなたが天に還ってからもう14年になります。お母さんはあなたのおかげでヨガにもっと夢中になり、いま、ヨガを教える仕事をしています。いつだって寂しくてしょうがなくなっちゃうけど、こういう記事を残してみようかなという気持ちになるくらいには時が経ちました。わたしも少しは成長したのかもしれません。たまに見に来てくれてるのかもしれないし、いつもあの笑顔で見下ろしてくれてるのかもしれないし、すっかり成仏して神様になってるかもしれないし、次の生を生きているかもしれないね。とにかく、笑顔を見せてくれてびっくりしたけど、いま思い返すとうれしくてたまらないよ。ハッピーバースデーならぬ、ハッピー14周忌!また書きます。

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