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議員は国民を代表するのか? 

政治は選挙によって選ばれた議員たちによって行われる。たとえ、政策の立案に関しては、選挙によって選ばれてはいない官僚によって行われるとしても、決定権は議会にある。
そして、その議会は、普通選挙によって「民意を得た」とされる代議士たちによって構成されるため、「民主主義」的な政治が行われると見なされる。

こうした仕組みは、「日本国憲法前文」で規定される基本的な考え方に基づいている。
「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、(後略)」。

しかし、政治家たちの発言や行動からは、彼らが本当に選挙で投票した人々の「代表」であるのかどうか疑われることがある。

柄谷行人は、投票する側と選ばれる側のつながりの曖昧さを指摘する。

真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から束縛されない

柄谷行人『トランスクリティーク』

この考え方によると、無記名で行われる投票のために、誰なのか分からない人間たちの票が一定数が集まれば、選ばれる側に入る。
従って、選ばれた人間は、誰によって選ばれたのか漠然としているために、自分が代表しているのがどのような人々なのかが不明であり、投票者たちの代表として、彼らの意図に束縛されることはない

その一方で、柄谷は書いていないが、選ばれた者たちは、獲得した票は自分の主張に対する信任であり、「国民の信託」を得たものと考える傾向にある。
つまり、「代表されるもの」=選挙で投票した人々の意図とは、「代表するもの」=選ばれた者の主張そのものということになり、議員たちは選挙民に束縛されるどころか、むしろ彼らの主張や行動の保証だと見なすこともある。
その結果、選挙の後の議員たちには、投票した人々の代表者として「信任」されたという認識は乏しく、一定の利益を享受する団体に属す特権階級といった扱いを受け、そのような行動をするようにも見えてくる。

例えば、国会に関しては、民主党政権が誕生する時に問題となった議員年金、近年問題の文書交通費(1年間で1人1200万円×713人)や政党助成金(2023年度は総額315億3600万円)、そして、衆議院と参議院の同質性による2院制度の機能不全などなど、様々な問題がありながら、議会が自分たちの特権や無駄を解消することは不可能に近い。
(参考:議会制民主主義の費用対効果 1人の国会議員に1年間でかかる約1億円は有益か? https://note.com/muanitya/n/na737133d7d8a
しかも、議会、議員の問題を、議会以外で解決する制度は存在しない。


現在の日本であれば、18歳以上であれば基本的に全ての国民が選挙に参加できる。
そこで、選挙の度毎に、選挙に参加することは自分たちの「代表」を選ぶ大切な権利であり、その権利を行使してよりよい社会のために行動しようと、様々な媒体を使い呼びかけが行われる。
そのことは、選挙に関して、18歳以上の全ての人間が「平等」であり、「自由」に投票できることを示している。
それは「民主主義」という制度の基本原則である。

そして、私たちは、民主主義が現行では最も優れた政治制度だし、少なくとも自由主義に基づいた国々では、至るところで「自由と平等」が保障されていると考えている。

しかし、と柄谷は言う。

実際、選挙の場を離れると、資本制企業の中に「民主主義」などありえない。つまり、経営者が社員の秘密投票で選ばれるというようなことはない。また、国家の官僚が人々によって選挙されるということはない。

『トランスクリティーク』

企業のことを考えるとわかりやすいが、もし全社員が平等で、自由に代表を選択できるという制度があるとして、能力のない人間が代表に選ばれたとしたら、企業の存続にかかわる。
そのことから、逆に、民主主義とは、基本的に、構成員全員が同様の能力を持つことを前提にしていることがわかる。

ただし、実際には、選挙に関して、構成員に対し、一つの線引きが行われている。
総務省のホームページには、「選挙権」と「被選挙権」に関して、次のような説明が見られる。

私たちは、18歳になると、みんなの代表を選挙で選ぶことのできる権利が与えられます。これが「選挙権」。
そして、その後ある年齢になると、今度は選挙に出てみんなの代表になる資格ができます。これが「被選挙権」。
どちらも、私たちみんながよりよい社会づくりに参加できるように定められた、大切な権利です。

総務省のホームページ選挙権は18歳以上と一律に決められている。
他方、被選挙権は、衆議院議員であれば日本国民で満25歳以上であること、参議院議員であれば、満30歳以上であることが、必要条件とされる。

この違いは、「選ぶ権利」と「選ばれる権利」に関して、国民の能力に違いがあることを前提にした制度であることを示している
ただし、それは単に年齢によるものであり、しかも、その根拠は不明なのだが。


このように見てくると、議会制民主主義が、「みんながよりよい社会づくりに参加できる」制度であるとは考えにくいのではないかと思えてくる。
選挙で選ばれた者たちが、選んだ人々を「代表」するように見えて、実際には、代弁者となる必要がない制度。
しかも、当選した者にとっては、次の選挙で当選することが目的化されてしまう。(議員の後援会活動がその典型。)

ここで、現在の日本の国会議員の選挙がどのような仕組みで行われているのか、思い出しておこう。

衆議院:小選挙区(1区1人選出)で289人、比例代表(11ブロック)で176人。
参議院:選挙区(1区で2-8人選出)で146人、比例代表(全国)で96人。

小選挙区と比例代表が混在しているため、小さな政党は選挙区での勝利を目指す以上に、候補者を多数たて比例代表での議席獲得を目指す。その結果、ある程度の得票数と議席を獲得できれば、政党助成金を獲得し、党の存続を図ることが可能になる。
他方、政権与党は、多くの党が候補者を擁立することで、小選挙区での勝利の可能性が高まり、政権交代の可能性が低くなる
その意味で、現行の選挙制度は、現状維持に適したものだといえる。


では、現在の制度に変わる、よりよい制度はないのか?

われわれにとって望ましいのは、たとえば、無記名(連記)投票で3名を選び、その中から代表者をくじで選ぶというようなやり方である。そこでは、最終の段階が偶然性によって左右されるため、派閥的な対立や後継者の争いは意味をなくす。その結果、相対的に優れた代表者が選出されることになる。くじに通った者は自らの力を誇示することができず、くじに落ちた者も代表者への協力を拒む理由がない。

『トランスクリティーク』

柄谷行人は、投票+くじ引きという制度を提案する。
しかし、クジに通った者が権力の座につけば力を誇示するだろうし、落ちた者が反対勢力に協力するとも考えにくい。
「権力の集中する場に偶然性を導入するというシステム」は、机上の空論にすぎないと言わざるをえないのではないか。


代議制に代わるよりよい制度がないなかで、いくら現行の制度の問題点をあげつらっても意味がないように思われるのだが、しかし、選挙が政治参加の手段だと無邪気に繰り返しているだけでは、制度の改善も現実の政治の改革もできない。

そうした中で、せめて、代表制議会制度において、選挙期間以外、「代表するもの」は「代表されるもの」から根本的に切断され、恣意的に動き、束縛されることはないという側面が隠されている、ということは認識しておきたい。

現状をよりよい状態に変えるための第一歩は、選挙への参加を促すことではなく、制度の盲点を認識することにある。

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