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野球コーチから教育革新家へ - 河内智之の軌跡

中国語:https://note.com/mu_jpstudies_d/n/nf807ff2cb2cf?sub_rt=share_b


インタビューの目的

私たちは日本研究政治・社会の授業で「質の高い教育をみんなに」というSDGsのゴールに興味を持ち、教育活動を行っている河内智之さんに興味を持ち、インタビューすることにした。

プロフィール

河内智之 かわちともゆき
探求、キャリア教育・グローバル教育実践者 NPO法人未来をつかむスタディーズ代表
さくら銀行(現 三井住友銀行)退社後、JICA青年海外協力隊に参加し、グァテマラ共和国で野球ナショナルチームコーチとして活動する。
帰国後、法律事務所、受験予備校の経験を経て、2014年、「NPO法人未来をつかむスタディーズ」を設立。

大手銀行を辞職、グァテマラで野球コーチに転身

ーー銀行員を辞めて、青年海外協力隊を始めたのはなぜですか?

小学校の授業で見たアフリカの飢餓の写真が記憶の片隅に残っていた。母親から道徳的な話を聞いて育った背景もあると思う。その時、自分が生きている状況と全く違う現実に驚き、世界で起きていることに関心を持った。それらは転職の潜在的な動機となったと感じる。

自分の時代の就活は「職種」ではなく「会社」を選ぶような時代だった。どうせならまずは大手の会社で学びたいと思い、さくら銀行(現 三井住友銀行)に就職した。しかし、当時は1995年の阪神淡路大震災の影響が強く残っていて、社会でこれまで以上に教育や福祉が注目されるようになるのではないかと考え、思い切って退職を決意した。そこから、元々興味のあった協力隊に応募してみようと思った。


ーーなぜ野球を選択したのですか?

青年海外協力隊には様々な職種があり、その中から自分が教えられるものを選択する必要があった。そこで、僕は大学まで野球をやっていたのもあり、これなら教えられるかもと感じ、野球コーチを選択した。

ーー青年海外協力隊での経験や、「実はこんなことがあった」というエピソードはありますか?

僕が言い渡された任地として、グアテマラとジンバブエの選択肢があり、ナショナルチームの指導にあたれるグアテマラでの指導を決意した。
ボランティアに出るまでに会話中心のスペイン語の授業を受ける中で、日本の英語教育のあり方に疑問を覚えるくらい、三ヶ月でスペイン語が上達した。現地で元キューバ代表の選手や元プロを前にしてからは、自分が何を教えられるのかすごく困惑したが、日本の野球の細やかさや技術の高さなど、自分だからこそ伝えられることを意識して指導した。
他には、文化一つとっても何もわからないアウェーな状況があった。乗り越えられたのかはわからないが、生活と協力隊の活動の二側面で苦労した。そこで、現地の人と関わりを持つことが大切だと考え直し、ホームステイをすることにした。ホームステイ先の子達から、当時のトレンドや男同士での話で交流を深めた。それらの経験により、共同生活をすることで相互理解が深まることを実感した。

青年海外協力隊からみらスタ活動への転換

ーー帰国後みらスタの活動を始めるまでの経緯を教えて頂きたいです。

海外生活を送っていた頃の自分を振り返ると、感じたことが大きく分けて3つあった。
まず1つ目は、自分は徹底的に日本人なんだということに気づいた。 自分の知らないうちに、自分の行動や心理の随所に日本人としての常識や考え方が染み付いていたことに気がついた。
二つ目は、日本のことを全くわかっていないということを痛感した。現地の人に日本のことについて色々質問されるたびに、母国のことのはずなのに分からないことや、即答できないことがほとんどだった。
そして三つ目は、日本特有の資本主義社会の良い面に気がつくことができた。 日本のこれまでの様々な政治の動向、行き過ぎた資本主義のあり方に対して疑問を持っていたが、日本以外の国の実情を知ってからは、その仕組みに少し納得できるようになった気がする。
これらのことから、帰国して何をしようかと考えた時、まずは日本を理解することから始めなければならないと思った。

これに付随して、日本の骨格を理解してみたいという思いから、法律事務所で憲法を学び始めた。そして、憲法を学んでいくうちに「これらを学校教育で伝えることができたらさらに良いのではないか」と思うようになり、学びの提供や学校サポートといった活動に繋がっていった。子供たちをサポートしながら色々と教えていると、子供たちに「先生、私も大学行けるかな」とか、「私がアナウンサーになるためにはどうすればいいの」とか、今後のキャリアについて問われることが多くなった。そう思うとやはり、自分の目指す未来を切り開くためには「自分が何者か」を学んでいくことは必要だし、彼らも子供ながらに自分の生き方について考え始めているんだなと気付かされた。僕は、そういう子供たちがもっと想像力豊かに未来を考えられるような理想の学び舎を作りたいと思い、やがて今のミラスタの活動に繋がっていった。

発想が自在に羽ばたくーみらスタの活動

ーーみらスタの活動「分別ゴミ障害物競争」や「早発電クイズ」などのユニークな発想の企画はどう思いついたのですか?

実は、この二つの企画は子供たちから出た発案で、自分達が考えたものではない。何かを伝える活動をする場合、普通の張り紙などの案では、どうしてもベクトルが他者向きになってしまい、そこに独創性や実現可能性はない。大事なのは、まずは自分たちの中でデータを収集したり、自分たちの中で発想を消化すること。みらスタでは、コンテンツを作ってそれを売るという一方的なことはしない。そんなものは世の中にゴロゴロある。

常に子供たち自身で「気づき」を生み出せるよう、子供たちの発想を引き出せるような工夫をしている。


ーーこれまでで印象に残っている出来事はありますか?

【嬉しかったこと】
探求的な学びが良いと思っていても、それを実際の教育に取り入れられる学校は少ない。教師一人が全てを把握できるわけがなく、それをやろうとすることが間違いで、一度教師の手を離れてみると、子供たちが自由に探求する学びをするようになった。教師たちの教育への負担軽減や、子供たちが探究心を開放する姿を見て、自分達のやってきたことは間違いではなかったのだと、嬉しかった。生徒の探求を手助けできたという実感があったことや、みらスタの活動によって新たな学びを構築できたことが良かった。

【大変だったこと】
青年海外協力隊として活動していた頃は、その活動の大変さから、「僕は銀行を辞めて君たちを助けるためにわざわざ来てやってるんだぞ」と、時々現地の人に八つ当たるような感情を抱いてしまう、最低な自分にも出会った。
グアテマラにいる頃、自分が本気で思い悩んでいる時期に、ある選手にふざけて水をかけられたことがあった。今振り返れば、現地の人にとってその行動に深い意味はなく、遊び感覚での行動だったと思う。しかし、当時の僕にとってはそれがとても腹立たしく、その相手にボールを投げた結果、相手を怪我させてしまい、騒動となってしまった。そんな中、なんと相手の選手の方が「日本文化の理解が足りていなかった」と謝ってきてくれた。僕はそこで、自分のしてしまった事にひどく落ち込み、異国に来た身である自分の方が理解が足りていなかったと、情けなさを感じた。
このように思い悩む時期もあったが、この状況を嘆くよりも、アウェーな状況を自分から楽しむ方が楽に馴染めるのではないかと考えるようになってからは、現地の人と一気に打ち解けられた。初めは心身ともに大変だったけれど、ただ誰かのために生活するよりも、どこかで自分のために結びついていると感じながら生活することで、状況は好転した。

「自分の幸せと誰かの幸せの重なり」

ーー教育に関する活動に取り組む上で、最も大切にしていることは何ですか?

相手や場面によって伝え方や言葉は変えるけど、本質的なところは変えず、大人にも子供にも一貫して同じことを伝えるようにしている。それは、自分の幸せと誰かの幸せの重なりに、誰しもの生きるヒントがあるのではないかということ。それを見つけていくためには、自分の生き方を真ん中に据えて学びながら、他者に関心を持って視野を広げていこうということ。決して夢が決まっている人が偉いわけではなく、何がしたいのかわからない人が今を一番生きていたりするので、そんな人のフォローも大切にしている。

誰もが自分らしく生きられるように

ーーみらスタの”ゴール”はなんですか?

誰もが自分らしく、その個性や可能性を育むためには、それを学校教育がもう少し寄り添わなければならないと感じている。それを軸にした上で教科の学習をすることで、誰もがウェルビーイングのために向かって進んでいけるようになると思う。探求的な学び、つまり「生き方が真ん中で、その周りに学校でのさまざまな学びがある」という考えが基盤。現在進行中で、これからの学びのあり方を模索している。


記事の著者

武蔵野大学
服部美緒、黄俊傑、松永夏澄、李艶陽

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