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先生と豚②

 紅林が母親の病状を知ったのは、救急病院に呼び出されて重々しい医師の口調を聞いたときだった。緊張と不安とで文字通り頭が真っ白になっていて、そのときのことはあまりよく覚えていない。ただ、レントゲン写真に映し出された黒い影と医師が身につけていたロレックスの時計が強く印象に残っていた。
紅林がぽつぽつと相談を持ちかけると、そうだねえ、と呟きながら柿崎は研究机の引き出しから眼鏡を取り出した。柿崎は少し前から相談役っぽいからという中身のない理由で準備室にいるとき伊達眼鏡をかけるようになった。他でそれをつけているところを見たことがないから、視力が悪いわけではなく本当に伊達でかけているのだろう。確かに眼鏡ひとつで印象は変わった。
(けど先生がかけているとなんだか胡散臭く見えるよな)
そう紅林は思ったが、口にはしない。むしろいまはその馬鹿みたいな柿崎の行為が、緊張をやわらげてくれて有難かった。眼鏡をかけた柿崎が相談役として口を開いた。
「お金を作るのに一番簡単な方法はなんだと思う?」
唐突な質問だったかが、怯まず紅林はしばし考える。
「……宝くじ?」
「馬鹿だな君は」
柿崎は鼻で笑わって一蹴した。
教師としてその反応はないだろうと紅林は思う。まじめに答えた生徒に対して失礼にもほどがあるというものだ。
「ひでぇ。もう少し柔らかく言えないのかよ」
「これでもソフトに言ってるんだよ。普段生徒に気を使ってるからね、こういうとき言葉がどうしてもきつくなるんだよ」
「俺も生徒だろ」
「いまはプライベートな話をしているんだから、いいの」
「いいのって……その可愛い子ぶるの止めてもらえませんか。正直気持ち悪い」
「そのうち慣れるよ。ほら、そんなことより一番簡単な方法は?」
柿崎は紅林の発言をさらりと受け流し、無理やり本題に戻した。
「分かんねぇっす」
「ほほう。分かんねぇっす、ときたか。まるで運動部みたいな言い方だねぇ。帰宅部の君が言うとちょっと違和感あるな」
「うるせえよ、大きなお世話だ」
にこやかに笑う柿崎を見返して、紅林はため息をつきたい気分になった。突然厳しい口調になったり子供みたいな口調になったり、柿崎の行動には一貫性がない。そもそも自分から問いを持ちかけておきながら解答を後回しにするなんて反則だと紅林は思う。
(授業のときとまるで違うじゃんか……)
こうして見ると普段のほうがよっぽど大人だ。
「で、何なんすか。金を作る方法って」
「教えてやらないよ」
「……」
これほどま人を殴りたい衝動に駆られたことがあっただろうかと紅林は拳を握る。いっそ、この野郎とでも叫んでアッパーを食らわせたらすっきりしたかもしれないが、教師を殴り停学――あるいは退学処分になることは避けたいという理性が働き、それは叶わなかった。行き場のなくなった憤りを重いため息に乗せた。
剣呑な紅林の雰囲気に気づいたのか気づいていないのか、柿崎は手をひらひらと振り、冗談だよと言う。その笑顔が憎たらしい。
「先生……」
「いや、からかって悪かったよ。君は一応真剣だもんね」
「一応って何だよ」
「まぁ、いいから」
紅林には何がいいのかさっぱり分からない。
「簡単だよ。働いて稼ぐのには年月がかかるし、その割りに莫大な金額を得ることはできない、普通は。宝くじなんて当たればいいけど結局はパチンコなんかと一緒で博打でしょ。当たる前に破綻するかもしれないしねぇ。とすると残された選択肢は――」
柿崎はそこで言葉を切り、もったいつけて伊達眼鏡をかけなおした。
「盗むこと、だよ」
「はぁ?」
「それも莫大な金が必要となれば銀行強盗するしかないだろうね」
えぇ、と紅林は不満の声を漏らした。
「そんな馬鹿みたいな話、誰が信じるんですか」
「誰も信じないだろうね、君以外は」
「は?」
いや俺だって信じないし、と紅林は軽い調子で続けようとした。しかし柿崎の顔を目にして思わず口を噤む。相変わらず微笑をたたえてはいたが先ほどまでとは何かが違う。背筋がぞくりとしそうな冷たい感覚を覚え、やっと柿崎の目が笑っていないことに気づいた。小説や漫画でよく使われる表現で知識としては並程度に持っていたが、実体験するのははじめてのことだった。
(本当にこんなことあるんだな……)
目が笑わってないというのはこういうことか、と紅林は妙に納得した。それと同時に柿崎が冗談を言っているのではなく、真剣にこの話をしているのだと気づかされ、はっとする。
「先生……」
「ほら、信じた」
え、と紅林は声を上げる。
「君はあんま勉強できないけど、なんていうのかな、感覚が鋭いんだよ――少なくとも僕はそう思ってるんだけどね。君って他人が嘘ついてるかどうか何となく分かっちゃうんじゃない?」
「いや、そんなの分かんないし」
「でもいま、僕が真剣に言ってることに気づいたろ? ……うん、どう言えばいいのかな。そう多分、君はその場の空気を読むのがうまいんだろうな」
それはあるかもしれない、と紅林は思う。友人たちと話をしているとき、そのうちのひとりでも苛々していると紅林はなぜかすぐに気がつく。察知したからどうのということはないのだが、周りはそれに気づいていないから紅林はひとり気まずい思いをするということは頻繁にあった。時には耐えかねてその場から逃げることもあるし、素直にどうしたのか問うこともあった。ただその感知能力が別段役に立ったこともなく紅林は余り気にしたことはない。柿崎に指摘されてはじめて、そうかと思ったほどだ。それを柿崎に言ってみると、柿崎はうん、とひとつ頷いた。
「僕の見解もあながち外れてなくてよかったよ」
「俺は見透かされた気分であんまり嬉しくないんだけど」
それでどうなの、と柿崎は紅林の不満を無視して聞く。
「盗むの?」
まっすぐに瞳を向けられて紅林は言葉に詰まった。
「いや、それは……」
紅林は目のやり場に困り、俯いて瞼をきつく閉じた。
脳裏に蘇るのは、診察室での会話。
蛍光灯の光に反射してロレックスの時計が光ったのを覚えている。
病状を説明し終えた医師は当然のように手術の手続きについて話し始め、紅林の不安は別の方向に広がった。いよいよ手術の日程を決めようとカレンダーに目をやった医師の言葉を半ば強引にさえぎり、紅林はその不安を恐る恐る打ち明けた。
――手術費はいくらなんですか?
医師はさらりと金額を答える。
金額の大きさに紅林は思わず目を見開く。
――そんなに、かかるんですか。
紅林は素直に払えるかどうか危ういことを述べた。すると明らかに医師の顔は曇り、そして態度はぞんざいになった。ロレックスの時計を見ながら、払えないのなら他をあたれと追い出すように紅林を診察室から下がらせた。
あのときの憤りを紅林は忘れない。
医師の高慢な態度にも腹が立ったが、それ以上に自分の無力さが泣きたくなるほど恨めしかった。この気持ちが解消されるならどんな事だってやってみせると固く誓った。
だが、迷いはある。
紅林は瞼を押し上げた。
「盗むしか方法がないなら、仕方ないのかもしれない。でも――先生、俺にそんな度胸はないし他人を傷つけてまで、金を欲しいなんて……」
「でも、手術費が手に入らなければ君のお母さんは――死ぬんだよ」
冷たく放たれた柿崎の言葉に紅林は顔を上げる。
柿崎は笑っていなかった。
「他人を傷つけたくないなんて、きれい事だよ。誰も傷つけないで生きている人間がこの世にいると思うのかい? 他人と家族、天秤にかけて重いのはどっちなのか考えてみるんだね」
「それは……」
もちろん家族だ。紅林は声に出さず胸中で答える。自分には全てが尊い命で同等の価値があるなんて聖者染みたことは言えない。赤の他人が病魔に侵されても気の毒にくらいは思うが、身内が危篤ともなれば冷静ではいられないだろう。実際にそうだった。
「だからって……」
紅林は俯いた。
その様子を見ながら柿崎はすっかり冷めてしまったコーヒーを口にする。ずず、と啜る音が軽く響いた。
「俺は……」
言いかけて紅林は言葉に詰まる。どう答えていいのか分からない。もともと答えが見えないまま発した言葉はむなしく空に消えた。
紅林は犯罪に手を染めてまで金を作る必要があるのか、必死で考える。ローンを組んで、働いて返すのが一番無難な方法ではあったが果たして病院側が未成年ということに目を瞑ってくれるかどうか怪しいものがあった。だからと言って、母の名義でローンを組んでも月に支払える金額は高が知れていた。ただでさえ苦しい家計が更に厳しくなり、手術が成功したとしても術後の治療を受けられる保証はない。何より、母が治療を断念するだろう。紅林は女手ひとつで子を三人も育ててきた母にそんな決断はさせたくなかった。
「俺がやるしか、ないんですか――先生」
紅林は柿崎にすがるように訊いた。
ずず、とコーヒーを啜って柿崎はつと視線を逸らす。
「君は、僕の戯言を本当に信じているんだね。だから真剣に悩む」
だってさっき先生は真剣だったんだろ、と紅林は視線だけで訴える。
柿崎はゆっくり紅林を振り返った。
いつの間にか顔に笑みが戻っている。
「生徒に信頼されてるなんて、嬉しいね。なら僕も君を信じようかな」
柿崎の言わんとすることを図りかねて紅林は眉をひそめる。その眼前に柿崎はおもむろに手を差し出した。
「君がそう決断するなら、僕はその手助けをしてあげるよ。君を信用して、ね」
言われて、ようやく紅林は柿崎の真意を悟り、差し出された手をじっと見つめた。
(この手を掴んだら、俺は後戻りできないんだな……)
そして柿崎もまた、自分と同じ道を進むことになる。
(きっと、この決断は間違いだ)
心情とは裏腹に柿崎の手に惹かれた。
そして気がつくと紅林はそれをしっかりと握っていた。
これでいいんだという思いと、しまったという後悔とが同時に湧き上がる。
ふと柿崎の顔を見ると晴れやかな笑顔がそこにあった。
「先生……俺、は」
「うん、間違ってるかもしれないね。でも僕は嬉しいよ――紅林」
いきなり名前で呼ばれ、紅林はまるで授業中に指名されたように、はいと答えた。柿崎はにこりとこの場に似つかわしくない愛嬌のある笑顔を浮かべる。それはまるで、ことの成り行きを楽しんでいるかのような笑顔だった。
「お互い、もう逃げられないよ」
発せられた柿崎の言葉は思いのほか重く紅林の肩にのしかかる。



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