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世界と繋がる芸術論 42


優子さんが、梅採りをしていて脚立を思いがけない高さから飛び降りてしまい、左の膝の靭帯を切った。九月になって大きい病院を紹介してもらい、僕らが暮らしている飯田市では手術はできないらしい、行くことになった。

もう二〇年以上自然農法を試している岡島さんの畑のお手伝いに行くようになった。岡島さんの畑の土はいつもしっとりと湿って黒く柔らかくて、よく知った野菜たちが他では見たことがない姿で生きていて、至るところで雑草に交じって自生えの野菜が育っている。

同時に、これからは空き家の活用ではなく更地や空き地のほうが問題だと思うようになっている僕は、敷地があればまず雑木の庭が見られるようになるといいな、そのさきに街が森として立ったらいいなと夢想している。『森のエチカ』と名付けたそこに、いつか手始めとして三本の樹を植え、図書館小屋を作りたい。僕が理想とするような森の在り方を実践している人は皆口を揃えて言っている、重要なことは目に見えない土の中の環境の適切な循環が整っていることだと。
そもそも僕がものを考えるようになったきっかけは裸足で外を歩いたとき、どこまで行けば土を踏めるんだと都市のあり方に疑問を感じたことが始まりだった。
そういうわけで今、僕はようやく土のことを考えはじめている。驚いたことに、僕は土がどうやってできているのかさえ、知らなかったのだ。

岡島さんの畑を手伝うようになって知った、土には多くの生きものの死骸が欠かせない。土だけではない、僕らが食べるものもまた生きものの死骸だ。
僕らは死に触れていなければ生きていけないのではないか。動物、葉っぱ、虫、菌、生きものの死骸がどれだけ含まれるかは野菜がよく育つかの要になる。人間も、同じなのではないか。すると

人は死を希求している。

という言葉が頭のなかでパッと、生まれた。

滅多に病院に行くことがないから新鮮で、間隔をあけた椅子に座って、院内とそこを行き来する人たち、の身体を眺めていた。大勢の人がいながら、他の商業施設やイベントの人混みとは明らかに異なる、清潔で、色も光も角のない、架けられた絵も観葉植物も人に刺激を与えない、そう刺激が過剰なほど抑えられた、なんというか無表情な空気。
驚いた。いまやこの社会の中でいちばん人が生まれ死んでいるのは病院だ。にもかかわらず、ここには死の気配がきれいに漂白されていて、知識でそう知らなければ、ここで人が死んでいるなんて信じられない。
それだけじゃない、生の活力、生きようとする身体自身の気持ちを誘発するようなものも見当たらない。ここでいう活力とは、赤ん坊の大きな泣き声とか、痛みや苦しみにたまらず出る叫びとかもそう、言うなれば自然と身体が出す発露のことで、病とは、健康とは一体どんな状態なのか。
なんだか生も死も自分のことなのに自分ではわからない、医者に診断されて初めて自分が生きているのか死んでいるのか知るかのような、でも知ることができるのは数値化され二次元化された身体が、標準値からずれているか収まっているか、収まってさえいれば死んでたって生きていることになりそうな、
患者は何を求めてここにやってきて、医者は一体何をどうしているのだろう。なんというか、ここにあるものは皆、頭のなかだけの出来事のようだ。
そのとき、「人は死を希求している」この言葉が持つ意味が、僕のなかでより厳密になった。身体にとっては生と死はあくまで状態の違いでしかない、そう考えていたが言葉が違っていた。身体は生と死をわけてなんかないむしろ、

身体は生と死の区別がうまくついていない。

考えてみれば当たり前だ。死とは概念であり言葉だからだ。死を希求しているのは、あくまで「人」なのであって、他の生き物と同じこの身体ではないのだ。
この連載を続けるうち、「僕」はこの身体、肉体のことではどうもないようだとわかってきた。生と死を分けているのはその「僕」だ。「僕」は未だ体験したことのない死を知った気になっているが、それは頭だけで済ましているからだ。生と死を身体に委ねてみたら、世界はいまとは違う様相を見せてくれるだろう。身体はつねに今、しかない。今を生きて、死ぬときに死ぬ。死ぬべきときに死ぬことが自由だ。
いま人はワクチンだ感染予防だとコロナ対策に躍起になっている。まるでコロナで死ぬことは間違いだと考えているみたい。
じゃあ、何で死ぬなら納得して死ねるのだろうか。
死ぬべきときに死ぬ、ということはそれまでは生き抜くことを意味する。間違ったときに死んではいけないからだ。死んでいないだけの状態であるに甘んじることもできない。ただ死んでいなければ生きている、では「僕」は「生きている!」と実感できない。死を希求している、というのは自分が死ぬことを意味しない、生と死という境が曖昧な状態を明確に分けてしまった人という存在が、土や肉に代表される死を生きるために、自分が何を求めているかもわからないまま求めている、だからこう言い換えることもできる、

人は生を希求している。

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