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「青山誠と学ぶ保育基礎講座ほいくきほんのき」に寄せて その9〜保育者同士の対話、そのまえに保育者の「意見」ってなに?

「青山誠と学ぶ保育基礎講座〜保育の読む、書く、見る、対話する」に寄せて。
今回は、保育者同士の対話、そのまえに保育者の「意見」ってなんだろう…というお話です。

保育の仕事って実は5割くらい、保護者や同僚といった「おとな」相手の仕事なんだなぁ…ということに気がついたのは、仕事を始めてから数年経ってからのことでした。

同時に、人間関係をそれほど円滑にすすめられない私にとって、それは控えめに言っても、子どもを相手にするときよりも「それほど興味が湧かない」、「できれば極力少なくできるとありがたい」ような類の関わりも多かったことは確かです。

保育がサービス化してきて、ますます保護者との関わりがむずかしくなってきた昨今、保護者との関係性はまた別に譲るとして、同僚との関係というのは保育において抜き差しならないものです。

なぜ抜き差しならないかというと、
保育はひとりではできないものであり、そこには常に「だれかとともに」ということがついてまわるからです。

意見が分かれることもままありますが、多くの場合、意見を交わし合える関係にまで至らず、せいぜい「相手の機嫌を損ねないようにする」ことに終始している場合も多いのではないでしょうか。

「保育基礎講座ほいくきほんのき」では、
どうしたら保育者同士が対話的な関係になれるのか、
そのために「保育を読む」とはどのようなことなのか、
実際の事例をもとに具体的に紐解いていけたらと思います。

でも保育者の「意見」ってなんでしょうか。
それはよく言われる「保育観」ではないような気がします。
そもそも保育観なんてそんな簡単に持てるものではありません。

保育者の意見というのは、いつでも「具体的な事例に基づいているもの」だと私は思います。
どういうことでしょうか。

事例においては、かならず保育者の「私」が登場します。してしまう、と言った方がいいかもしれません。

事例のなかではその保育者の子ども理解(目の前の子どもたちをどんなふうに見ていたか)や、それに基づいた関わりがあからさまになります。

事例を出すとは、保育者にとって最初のうちは勇気のいる、恥ずかしいものでもあります。
そしてあからさまにしたあとには、かならず、同僚や同業者による検討や吟味が待っています。

一人前の保育者になるためには、このような恥ずかしさや、厳しさを、くぐりぬけなければいけません。

だから私は事例を出さない保育者というのを基本的にはあまり信じていません。
いくら口がたっても、事例を出さないのならば、それは保育者としての「意見」たり得ているとは思えないのです。

オーラルコミュニケーションというのは、関係性が色濃く反映されます。
その「場」の人間関係の中で、「強い」保育者がいつでもなんとなく説得力のあるふうな言葉をもっているとして、それは保育者としての「意見」ではないのです。

また、子どもの姿の解釈ばかり能弁にする人も、意見を言っているとは思えません。先に述べたように、保育の事例では解釈(子ども理解が必ずしも解釈かというややこしい議論はさておき)だけではなく、そのあとにそれに基づいた関わりがあり、その省察があります。そこに自分が「でてしまう」。自分を持ち出さずに、子どもを対象としてあれこれ解釈をこねくりまわしても、それは保育者の意見としては成り立っていないのです。

一歩引いて、自分をその場にあらわさず、ひとの保育をあれこれ批評(本当の意味の批評ではないですが)めいたものを裏でしているなんて、論外です。それはもう保育以前の問題であり、批判にすら値しないと言わざるを得ません。

事例を出すとなると逃げることはできません。
事例の読み方を知っている人が読めば、なおさらです。

そして「保育観」とは、事例をたくさん出して、それについて他者と検討や協議を積み重ねたそのすえに、もしかしたらぼんやりと浮かび上がってくるものかもしれません。最初から拙速に追い求めるものでもない気がします。

保育基礎講座では、このような「事例に基づいて保育者同士が協議するために必要な事例の読み方のきほん」をお伝えします。


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