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保育セミナー「初心連続講座2024」に寄せて03~保育にハウツーは必要か?スキルからアートへ

2024年5月から順次開催される、保育セミナー「初心連続講座2024」。
それに寄せて、予備的な補足として、また自分の思考を深めるために、書いていきたいと思います。

保育のわざについて。「ハウツー批判」批判

初心とは、実践の中でしか見出せず、実践は日々の現場における心身のあくなき調整の中にしかない、前回はそんなことを私見として述べてみました。

それゆえ、初心は感動のための感動とは無縁ですよということや、そうであるなら、初心を探すのは瑣末にも思える保育の「わざ」への探求ともつながってくるんじゃないだろうか。これもまた私見です。

たまに、研究者から「最近の保育はハウツーばかり」というつぶやきを頂戴しますが、ああ、本当にわからないんだなと思うことがあります。腹も立たない。うるせぇな、とは思う。

でも、やったことがないというのは、本当に、単に、わからないんだなと。

保育にハウツーが必要かどうか、と聞かれたら、当たり前だと答えるほかありません。でもこう言うとすぐに、こんな反論が返ってくるでしょう。

「保育には答えはないのだし、こうしたらこうなるという類のものが本当に必要だろうか、それは安易なマニュアル的な保育や、子どもへの固定的な見方に陥らないだろうか」

こうなってくると、少し整理して考える必要があるでしょう。

そもそも、保育者たちはいろんな「わざ」を、いろんな位相で共有し合ってます。現場で実際に共に保育をしながら、記述や語りを通して、あるいはメディアを通して。

他者からの「わざ」の伝達を受けて、保育者たちは自分の現場で実際にそれを試してみます。この時に、「こうしたらこうなるだろう」あるいは「そのようなパターンに子どもたちを落とし込もう」というのは、ハウツーの問題ではなくて、単に臨床の質の問題です。

子どもや実践を操作的に扱えたとみなしているのは、ハウツーが必要か不要かという議論ではありません。

ほとんどの保育者はハウツーをそのまま鵜呑みになんかしていないし、実際問題として、そんなことは不可能です。必ずそこには子どもや状況、時には保育者自身に合わせた調整や選択が、自然と迫られてくるものです。

「最近の保育はハウツーばかり」という言葉は、このような現場での調整や選択が不可避であることを知らないということと、ハウツーを与えられたらそれをそのまま鵜呑みにしているんだろうという、保育者への軽んじだ見方がその底に感じられます。

でも鵜呑みにしちゃう人も多いでしょ、という声がまだ聞こえてきそうなので、もう少し話を進めてみます。

保育の茶飯事、ああ、うまくいかねぇ

保育にハウツー的なものがなぜこんなに求められるのかを、まず考えてみてほしい。
それは保育の茶飯事(いつものこと)として、「ああ、もう、うまくいかない」ということがとても多いから。

保育の状況は動的(動いて、変わっていく)だし、子どもも動的、こちらだって一定ではない。さらにそれ(状況、子ども、保育者)が関係し合って、さらに動的になっていく。

つまりは「うまくいかない」とは
予測とは異なってくる場合
予測に対応した手立てが遂行できない場合
予測に対応した手立てをした結果、とんでもないことや、イマイチなことになった場合
もうわけがわからない場合
人間関係が最悪で、保育以前の問題が保育の予測や手立てを塞いでいる場合

まあ、いろいろあるわけです。こうした中で、ハウツーとはいわば現場における仮説、足がかり、手がかり、なわけです。
仮説、足がかり、手がかり、だから、「やって、試して」そして「はずす」わけです。
そんなことは当たり前。基本現場は「うまくいっていない」からです。

ハウツーが安易である、なんて研究者風情に言われたくもありませんが、次のような整理をしたら、きっと納得してくれるのではないでしょうか。

修練に勤しむ人は、まれびとなり

時々「コツを教えろ」という要望をもらうけれど裏ワザが表ワザあってのものであるように血肉化が伴わないコツなどない。よって血肉になる基礎から伝えることになるわけだけれど、その修練に勤しむひとは稀である。コツも裏ワザも、コスパ・時短テクのたぐいではない。しかし経験さえ積めば秒で伝わる。
(中島 智さんのX(2024/3/17)より、引用)


保育の「うまくいかなさ」に絶えず直面している保育者にとって、それをなんて呼ぼうと、ハウツー、わざ、スキル、コツは臨床への足がかり、手がかりとして必要です。
こちらも、以前保育の中の技について書いた文章があるので、補助線としてお読みいただけたら幸いです。

批判への批判はこれくらいにして、返す刀で、では保育の実際を見てみると、引用の文章のように<その修練に勤しむひとは稀である>と言えるでしょう。

研究者の批判が的外れなのは、ハウツーをそのまま当てはめる人もいないし、ハウツーを自分なりに血肉化するような修練を積む人もそんなにいないから、ハウツーがどうこうなんて「そもそも問題化するにあたらず」ということです。

保育者というのはプロです。身体の練度で言えば研究者とは比べ物にならない。それは茶飯事のことだから。ハウツーごときは身体の練度でいえば、ほんの足がかり程度に過ぎないのです。

この辺りをもう少し、別の用語で見てみます。

スキルからアートへ、その先にある初心

引用文の中で、「わざ」が身体化伴うイメージ(血肉化)と共に語られていることは示唆に富みます。
これはそもそもスキル、わざ、コツ、ハウツーってそんなに簡単に伝えられるものなの?という問いとも通じます。

芸事においては、節は教えられるが曲は教えられない、と言います。
同じようなことはまた次のようにも言い換えられます。少し長いですが引用します。

 スキルは「図柄」である。独立したテクニックである。それに対して、そのスキルから離れることによって、「地」とのつながりを取り戻す。ということは、スキルを際立たせるために背後に切り捨てざるをえなかった別の側面を取り戻す。いわば、光の当たらなかった影の側面にも光を当てることによって、場の全体がもつポテンシャルエネルギーに、活躍の場を提供する。
 その時、アートが生まれる。アートは、ひとつの側面だけを強調するスキルに比べて、多面的である。場のポテンシャルエネルギーを生かすことができるから、多層的であり、立体的である。
 しかし、稽古のプロセスとしては、アートから始めることは出来ない。あるいは、アートだけ習得しようとしてもうまくゆかない。やはり、稽古の順序としては、スキルを学ぶことから始まる。まず「図」をシャープにする。そして、その後に、そこから離れてゆく。
 ということは、スキルがないことが大切なのではなくて、スキルから離れてゆくという出来事が大切なのである。その出来事の中にアートが生まれてくる。
(西平直『稽古の思想』)

 スキルから入らざるを得ない。これが実践には足がかり、手がかり、です。でもいつしかそれを越えていく。自由自在なアートな振る舞い。

その自在さは、よそから見ると一見、その自在さゆえに「なぜああしたのだろう」と思えてもくる。本人も「その時、なんかそう感じたんだよね」としか言えないのかもしれない。

ここが、独立したスキルとは違うところで、スキルは「なぜそうしたか」を語れる。でもアートは、その時のその時の創造だから語りづらい。一見、無根拠にも思える。

では、このアートは何を頼りにしているかというと、それこそが初心だと思うのです。

保育の初心連続講座2024 5月から順次開催です!

保育の初心(しょしん)を問い、確かめる連続講座です。
講師には、溝口義朗さん、岩田恵子さん、そして柴田愛子さん。

個人での講座ごとの単発参加、通し参加、団体参加、いずれも可能です。
詳細、お申し込みはこちら!


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