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サービスからインフラへ

保育がサービスに堕ちてしまってから久しいが、すでにもうサービスを通り越してインフラと呼ばれはじめている。おそろしいことだ。


サービスにはまだしも、人から人へという風景がある。インフラはどうだろう。そこで人々の営みや間柄は消え失せ、機能だけが残る。


だからこそ、つぎのような言説が成り立ってしまうのだ。
「保育園がインフラだというときに、それは保育所の社会的な役割や機能のことをいっているのであって、そこで過ごしている人々のことではない」

しかしおかしなことだ。
人は魚屋から魚屋的な機能と、魚屋のおやじを切り離せるだろうか。

まさに切り離せると確信できる点にこそ問題の根っこがある。人と機能を切り離せるとするならば、サービス目線でなんでも要求できるようになる。なぜなら要求している相手は人ではなく、機能だからだ。機能が当然みたすはずのものを要求して何が悪い。水道は水を出し続けるのは当然だ。電気がつくのは当然だ。ガスが燃えるのは当然だ。それは人ではなく、機能であり、インフラだから。


そこにあるのは固有名詞を剥ぎ取られたサービスの提供者であり、機能に還元された奴隷である。

こんなことがいつのまにか「常識」になり、世間の空気になった。政治的にもそれが促され、決定されてきた。政治とは人々の叡智の対話ではないようだ。

すくなくとも、私達が持つ勇気や希望の最上の部分が表現されているとは思えない。それは愚かしさと弱さの掃き溜めだ。愚かしさと弱さがいつでも誘導されて、きちんと形になる。

寓話を書こう。保育者たちのストライキを。エプロンをしているものはエプロンを空高く放り投げた。マスクは捨ててしまった。子どもたちの靴を借りて国会議事堂のまわりに並べた。

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