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見た後スッキリ! のストレス解消ができるよ。 Amazon prime見放題対象 感動の実話映画「リチャード・ジュエル」

財布を気にせず、手軽に感動する経験を通じてストレス解消できる映画のご紹介します。
クリント・イーストウッド監督の感動の実話「リチャード・ジュエル」。
1996年のアトランタオリンピック中に起きた爆弾テロ事件の容疑者とされた、無実の人リチャード・ジュエルについての実話です。
人を守る警備の仕事に使命感を持つ主人公が、犯人扱いされます。
見終わった後、普通の人が自分の役割を当然のように果たし、
生活する日常の貴重さが、心に沁みました。
普通の人が、とんでもない事件に巻き込まれ、絶望し、そこから自分を取り戻す過程。平凡で取り立てて取り柄のない主人公が、周りに翻弄される様子は、感情移入すること間違いなしです。

リチャードの見た目は、
自分の足が上からは見えないくらいの大きな腹、
鼻の下に髭を生やしています。
子供が大人を怖がるように少し遠慮した目で、
人の目を見て話すのをためらうところがあります。
でも目はキラキラとしているので、
子供がそのまま大きくなったような印象を受けます。
本当は法律を学んで警官、
FBI捜査官といった法執行官になりたいのだけれど、
その願いがまだ叶わず、
中小企業庁のビルで備品係をやったり、
学校の警備係をやったりしながら母と暮らしている。
だから、
アトランタアリンピックの警備のアルバイトに向かう時もお母さんに
「僕は法執行官だよね」と聞かずにいられない。
資質とやる気は十分なのに、
見合う役職に恵まれないのは、
平らな道を不釣り合いに軽いギアでペダルをかき回すような、
彼だけが空回りして見えて、
少し切なくなります。。。

ワトソンが結んだ約束

「Quid pro quo」。
冒頭で出会う中小企業庁に勤める弁護士のワトソンが、
備品係をやめて警備の仕事につくリチャードに、
100ドル紙幣を差し出しながら言います。
「権力は人をモンスターにする」、
悪い警官にはならないよう約束しろ、と。
弱者を守るためなら議員にもひるまず
「俺が相手だ!」と怒鳴るワトソンは、
警官を目指すリチャードにこう言います。
100ドルはその約束手形です。
この「Quid pro quo」(公平な交換の意味)は、
一方的に見返りを求めずに与える寄付と対義語です。
アメリカでは商取引の場面で、
極端に片方の利益が相手より多いとか、
見返りが見合わないような契約は無効にされることもあるようですが、
その時に問われるのが
この”Quid pro quo 公平な交換”であるかどうか、
ということのようです。
この映画には、
権力を持つものと持たざる者、
個人と組織、
市民と国の捜査機関という
多くの対立軸が含まれていると思います。
弁護士のワトソンとリチャードは、
この対立を突破する道を探して奮闘します。

”濡れ衣”が突き落とす絶望

人に疑われる経験とは、どんなものでしょうか。
私自身、小学校の頃、濡れ衣を着せられてつらかっところがあります。
自分としては後ろめたいことはない。
でも、
例えば第三者から見たら、
疑われる芽を自分で作ってしまったことを、
自分がよく知っているような場合はなおさら、
どんどん孤立を深めるのを、
止める手立てがない。
例えるなら、
他人と自分の間の確実に存在していた橋に、
根本からヒビが入って、
途中まで歩き進めていた自分が、
橋と一緒に落ちてしまうような感じがしました。

銃でも、絶望からは自分を守れない。

この映画の主人公のリチャードも、
ライセンスはあっても、
自警団か!というほどの大量の銃を持っていたり、
以前に警察官でもないのに警察官だと身分を偽ったことがあったり(警官に憧れていた)、
税金を2年払っていなかったり、
濡れ衣を着せられる原因を自分で作っていました。
本人は善意の塊のような人なのに、
それらの過去の振る舞いに群がるメディアは、
リチャードに容赦ない疑いの視線と、言葉のナイフを突き刺します。
見ていて主人公の感じている孤独感が、
まるで闇夜に窓から月の光がにじむように、
画面を越えてこちらに忍び込んでくるような気がします。
まさに絶望のどん底です。

敵に塩を送ってどうする!

連日続く孤独感。
そんな辛い日々を送ると、
本当は悪いことをしたのではないかと、
自らの拠り所が揺らぎ始める。
自分を自分で疑うことがどれほど辛いことか。
しかも、リチャードは家宅捜索に来た捜査官たちに、
「協力するからなんでも聞いて」と、
自分を疑う相手に塩を送るようなことを平気で言います。
弁護士に黙っていろと言われても、やめません。
リチャードを演じるポール・ウォルター・ハウザーが見せる演技は、
この矛盾した行動を、なぜか自然に見せる、すごい演技力です。

イーストウッド監督の作品は、どうにも身動きできない八方塞がりの状況を、なんとか切り抜けようとする主人公の物語が多いと思います。
「This is our destiny!」とマット・デイモンが吠える「インビクタス」や、
乗客を救った英雄の機長を描く「ハドソン川の奇跡」など、
好きな作品がいくつもあります。
「ハドソン川の奇跡」でも、
ヒーローのはずの機長が疑われ、苦しい事故後のドラマをトム・ハンクスが演じていました。

「SECURITY」の美学。

どうしたらこの絶望から抜け出すことができるか。
その答えは、
リチャードの中に確実に芽生えていたのでした。
霧の中を歩くような日々の中で、
リチャードの精神的な支えになったのは、
「誰かの役に立ちたい、人を守りたい」という
シンプルな目的意識だったのではないでしょうか。
一つ一つの行動だけを見ればダメダメなところもあるけれど、
彼の仕事にかける思いは、最高レベルで、
曇りひとつない一貫性があることは、
裁判の過程で受ける嘘発見器でも証明されるくらいでした。
リチャードが"Security"と書かれたポロシャツを着て、
警備するときの足と手のリズミカルな動きは、
彼の美学を垣間見ることができます。
そう、リチャードは警備の仕事に、美学を持っているのです。
彼の美学が強さを支えた源泉なのです。
美学を持った人は強い。
クリント・イーストウッドが描こうとしているのは、
そういう”強さ”なのではないかと思います。
「インビクタス」では、
人種や偏見に対抗するものとして、
団結による強さを、
「ミリオンダラーベイビー」では、
狡さと暴力に対抗するものとして、
ひたむきさ、無私の献身が照らし出す強さを、
「グラントリノ」では、
征服欲という悪魔に対抗して、
非暴力の強さを描き出そうとしているのではないか。

権力と数で相手を飲み込み、思い通りに操ることが、強さではない。
生半可ではない向かい風の中を漂うリチャードを、
正しい場所へと導いたのは、
彼自身の美学にまで練り上げられた目的意識だったのでしょう。
仕事をする時にはこうありたいものだと、しみじみと思いました。

レンガ積み職人の話のように、今やっていることがただのレンガ積みか、信仰の集まる教会を作ることなのか、違いはその人の心の中にあるこころざしと、どんな未来を作りたいのかというビジョンだと思います。

”強くなくても立ち直れるよ”、と映画が教えてくれる。

絶望から自らを救うのに必要なことは、
リチャードがやったように、
元々自分が見ていたビジョンを思い出すことではないかと思います
お母さんに「行ってくるよ」と言って家を出て行く時に、
人を守る仕事へと気持ちのスイッチを入れるリチャード。
彼がその大きなお腹に抱えているのは、
イベントに来る全てのお客さんを安全に帰宅させる、という
派手ではないけれど、
これ以上にない最高に大事なギフトなのだと思いました。
”法執行機関”の一員として働くことの喜びは、
人がただそこに居て、
街を歩き、
友人たちとビールを飲む、
そういう毎日の営みを、
明日も続けることができるということを、
全ての人が疑わずにいられることが大事だと知っているから、
持てたんじゃないか。
そして、その職業倫理は自分と周りの人を幸せにすることだという、
揺るぎない事実に根を持っていることを、
リチャードは疑いなく信じているのだと思います。

前向きな意図を持って仕事をするだけで、すでに貢献です。

張ちきれんばかりのお腹を抱えながら、
軽い足取りでリチャードは今日も働いています。
そして、そのギフトは見ている私にも届いたんです。
嫌なこと、
腹に据えかねること、
いろいろあるけど、
リチャードが持っていたように、
前向きな意図を持って生きて行くことが、
すでにとても大きな貢献なのだと
教えられたように思います。
何気ない毎日の繰り返しも、
こういう意味づけができると、
ストレスが自分を強くしてくれる坂道みたいなものだと思える気がします。

この文章では、キャシー・ベイツが演じたリチャードのお母さんの素晴らしい演技については書いていませんが、キャシー・ベイツの演技も素晴らしいです。この作品でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされました。
ぜひご覧ください。


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