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人生の主語は私だ!

突然ですが仙台に住んでいます

出身は関西なので縁もゆかりもない、むしろ東京より上なんて行ったことすらなかったのですが、住めば都ではや3年。とても住み良いところです。

仙台の夏の風物詩「仙台七夕まつり」で街中はにぎわっています。

仙台七夕は、古くは藩祖伊達政宗公の時代から続く伝統行事として受け継がれ、 今日では日本古来の星祭りの優雅さと飾りの豪華絢爛さを併せ持つお祭りとして全国に名を馳せております。七夕まつりは本来、旧暦7月7日の行事として全国各地に広まっていました。 仙台七夕まつりでは、その季節感に合わせるため、新暦に1ヵ月を足した暦である中暦を用い、現在の8月6日から8日に開催されています。(https://www.sendaitanabata.com/about)

全国から遅れること一ヶ月(実際はこっちが正式な時期なのか)街中で短冊を多く見かける時期なんですが、皆さん何かしらお願いをする時って何をお願いされますか?

街の人が書いた短冊を見ていてふと気付いたのですが、「願い」には2タイプあります。

①お願いごとの主語が「私」

「サッカー選手になりたい」「お金持ちになりたい」「痩せたい」「彼氏欲しい」…自分がどうなりたい、こうしたい。英語で言うと''I want to ~''。

②お願いごとの主語が「私以外」

「世界が平和になりますように」「家族が健康でありますように」…自分以外のものがどうなって欲しい、こうなって欲しい。英語て言うと''I want you to~''

私は俄然①タイプの人間です。七夕の短冊を書くときも、初詣に行くときもあくまで主語は自分。「(私は)可愛くなりたい」「(私は)楽したい」「(私が)お金持ちになれますように」…おいおい、小学生ですら世界の平和を祈ってるのに、私未だかつてそんなことお願いしたことある…?なんて自分勝手な人間だったんだ、恥を知れ!!!!

人のために祈ること

素敵です、憧れます。自分を差し置いて人の幸せを祈ることのできる方、どんだけ満たされてるんだ羨ましい…とすら思います。そう思うと同時に自分の心の余裕のなさが浮き彫りになった気がしました。

私は割と周りの空気読む力が長けていると思います。裏を返せば、周囲を気にしながら行動することが多く、「他者の目にうつる自分像」にがんじがらめになりながら生きている気がします。

「(あの人がこう思うだろうから)明日の仕事は早いけど、今日は夜遅くまで付き合おう。付き合いのいい私、よしよし。」「(あの人はこう言う子が好きだろうから)今日はボーイッシュな服はやめてワンピースを着て行こう。まあ悪くないけどスースーするな。」

しかし何かお願いをする時だけは自分が主語、なんでなんだろう。多分、お願いをする相手の顔、ここで言うといわゆる神様の顔を知らないからですね。神様は私がいくらわがままで自己中心的で自分優先なお願いをしても、怒らないもの、顔知らないし。そんな甘えと言うか安心感があるのかな。

自分を主語に生きる人間になりたい

周りには「よく分からない人」と言われることが多いのですが、それって結局「私はこうしたい。」「私はこう思っている。」といった意思表示を怠っているからなのでしょう。自分の中の自分像も輪郭ブレブレなのに、他者の中の私像も輪郭ブレブレって、もはや私を形取るもの点線ですらないような気がしますが、まずは自分の輪郭を少しずつ知りたいです。それまでは神様、もう少しだけ私のわがままをこっそり聞いてください。

「あなたはどういう人なの?」と聞かれたら「こういう人間でございます!」といつか胸張って言える日は来るのかなあ。noteを書きながら自分のことが少しずつ見えてくるそんな日々を期待している、連続投稿しちゃう今日この頃です。





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