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Clock going[1.July] New Kingdom

3人が円環的に相手を思い合ってもそれは所詮三角でしかなく、回転して前進するには少し無理がある。しかし、4人、5人と増えていくほどに角度は削がれ本物の縁に近づき、ひい手は回転して前進していく本量を発揮していく。

MT SECONDの強みは賛同者が次のものへバトンを受け継ぐように、前のものからの恩義をただ後ろに繋ぐ橋渡しに徹する技量があるところだと感じている。

それぞれが仕事を持っている。それぞれが別の役目で向こう様と対峙している。だからこそ、自分の仕事への評価や相手からしてもらったことへの感謝だけでは前進速度が減速してしまい、単なるいたちごっこに終始しかねない。

航朔くんがいないときは、卓さんが航朔くんの作品を宣伝し、私に伝言してくれる。保育園や小学校の連絡帳の役割をそれぞれが次のものへと自然にしているこの優しい世界こそ「天国」であろう。
天国とは遠い国ではなく、私たちの心の只中にあるという聖書の言葉が実現している。

そういう世界の住人でいられること自体が私は人間としての誉だと思う。恵まれた人間と恵まれない人間の差であるとさえ感じてしまう。

私の調子が良くなったことを喜んでくれる兄弟がいる。
産みの親がいるように、育ての親がいて、共に生きてくれる親も今ではたくさん与えられた。
同時に、産みの友人が航朔くんや卓さんだとしたら、育ての友人はHちゃんだし、共に生きてくれる友人は世界中にいてくれる。

私を産み、私を育ててくれる人に感謝した時、聖書の言葉が思い出される。
「私の母とは誰か?私の兄弟とは誰か?」
生死と永遠をご存じである主イエスらしい問いかけだ。
自分という主観の中に生きている時、単純に産みの親だけを親であるとしてしまうと、それは自分の人生が親の生死に左右されてしまう裏付けになる。どんな時でも、それこそ親が死んでも、親が認知症になっても、親が親でなくても自分の人生は自分だけのものであると考えることで自立やアイデンティティが育ち生きやすくなる。

主観的に生きながら他者に思いやりを持ち、他者と関わる以上客観視を忘れてはならない。

親はひとりではない、隠し子だとか認知してもらえないとかDNA鑑定とか、日本人は特に血族にこだわりすぎる。やれ、いい家の出身だとか、やれ、混結時だとか、、、そんなことがその人にどんな価値を与えるというのか。DNAを受け継いだからとて何も財産や名誉まで受け継いでいないことをそろそろ皆が気づくべきである。
人が受け継ぐDNAは体の強さとかお肉向きの腸内環境だとか、糖尿病に罹患しやすいタンパク質の遺伝子回路だとかそのくらいであることに気づくべきである。
DNAのX染色体だとかY染色体に「大臣」とか「博士」と書いてあるなら見せて欲しいものである。

私は私を可愛がってくれる人を親だと思っているし、私に世話を焼いてくれる人を兄弟だと思っているし、私を愛してくれている人を親友だと思っている。
ひとつだけ条件をつけるけれど、それは人として当たり前のことだと思う。

相手の嫌なことをしない人。私が嫌がることを無理やりしない人。私が嫌だと言っているのに勝手に自分の考えだけで推し進めない人。

迷惑だと言ってもわかってもらえない。興味がないと言っても監視をやめない。
私のことを追いかけているのはTransParentだけではない。彼に振られた女性までもが私をストーキングしている。理由はわかる、私のいるところにTransparentお出没するだろうと算段している。
だから私が動くと民族大移動のごとく大勢の群衆が同時に動く。
私はそんなこともあって最近特に家から出ることが面倒に感じている。

不憫に思った私の育ての親や共に生きてくれる親が、戦前の兵器だけれどと活用してくれているのがトランシーバーだ。

「めぐちゃん、聞こえますか?元気ですか?お仕事頑張っていますか?」
ありがたいことだと思う。最初は攻撃目的で向こうのTransparent
がもたせたものだったけれど、責任を取る前に尻尾を巻いて逃げていってしまったから残骸として我が家に残されていた。それを育ての親や共に生きてくれる親たちが再利用してくれている。
おかげでゆっくりしながらも寂しくなく、負担なく十二分に生きられるようになった気がする。

SNSの整理も同時に行って、何より Transparentが何者であるかつかめたスッキリ感覚が大きいと思う。

怪獣のバラードという合唱曲がある。私や卓さんがいた1組が合唱祭で取り損ねた幻の名曲である。
「海が見たい、人を愛したい、怪獣にも心があるのさ」
私は時に子供染みていて怪獣みたいなところがある。真っ赤な太陽が沈む砂漠にいるにもかかわらず、そこから動かないくせに海が見たいとか人に会いたいと駄々をこねるからだ。
そんな単純な私のわがままにかつて怪獣だった育ての親や共に生きてくれている親たちがなんとかしてあげようと立ち上がってくれた時、私自身真実が見えた。本当の敵は航朔でも卓さんでもなかったことは親たちが証明してくれた。
親は子どもの時を知っている気がする。その時には本気を出して重い腰を上げる。
円環的な思いやりのバトンが一方向に親たちから子供に受け継がれたことで世の中は変わった。
私たちの勝利はチーム力であり、家族力であり、思いやりの力だと思った。
血族と金と名誉を超えた愛が私たちに勝利をもたらしたのだと。

止まった時計がギシギシと音をたてて動き出す。滑り出しは最悪だったけれど、時間を追うごとに動きは滑らかになっていった。当たり前のように思い合えることも、当たり前のように認め合えることも、当たり前のように互いに任せ合えることも、時計の針を止めなかったことにあると感じている。

円環的な優しさのバトンが前を振り返ることなく、ただ、後ろに繋いでいけるような、そんな信頼しあった絆が当たり前になりますように。

7月1日、小さな怪獣は出かけていく、砂漠を捨てて、愛と海のあるところへ。そこは新しい太陽が燃えるところでもある。

どんな夢を現実にしようか?私たちの伸びしろは無限大である。



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