恋とピアノと私 #3
レッスンのさなか、部屋に入ってきたクラスメートの女の子。
彼女の名前は、とりあえず森村さんとでもしておく。
森村さんはすらりと長身。髪はいつもポニーテールにくくっている。見た目と同様、さっぱりとボーイッシュな性格で運動神経がよく、顔は……まぁ、そこそこ可愛いという設定にしましょうか。
当時彼女とはクラスが一緒だったものの、クラス替えで新しくクラスメートになったうちの一人で、それほど交流はなかった。
幼稚園からずっと一緒とか、幼稚園は違ってもすぐ近所に住んでいるとか、そういうクラスメートは、男女問わず真の幼なじみといった感じだけれど、森村さんとはそういう間柄ではなかった。会話もほとんど交わしたことがなかったかもしれない。
小学生も高学年になると、みな異性に照れくささを覚え始める。
*
彼女が同じピアノ教室に通っているというのは知っていた。何かの拍子に親から聞き及んだのだろう。
知っていたはずなのだが、学校以外の場所でこうして同じ部屋――すでに何年も通ってなじんだ空間――に一緒にいるということが、なんだかとても信じられない気分で、まるで夢の世界に迷い込んだかのようで、急に体がふわふわと軽くなって浮かんでしまいそうになる。
それでも指は無意識に動き続けた。
仕上げにかかっていた曲は、もう暗譜に近いほど弾き込んでいた。簡単には崩れない。鍵盤の上を軽やかに走る自分の指に見入ると、急に現実に引き戻された。
森村さんはレッスン日の振り替えか何かだろう。自分もときどき振り替えてもらった。そういうときは、ふだん会わない生徒さんとすれ違って、思いがけずちょっとどきどきする。相手が誰であっても、そういうものだ。
しかし……
この妙な緊張感は何だ。背後のソファに腰かけたらしい彼女の姿は、演奏する自分の視界には入らない。
代わりに、身じろぐ音、ソファのクッションの沈む音、はらりと楽譜をめくる音。そういった音が、自分の奏する曲の休符に重なって……
落ち着かない。
*
あっという間に自分の演奏が終わる。うまく弾けたような気がするのだが、思い出そうとすればするほど、演奏中の記憶はぼんやりとかすみがかってしまう。
「うん、いいね。この曲は合格」
先生が赤鉛筆を出して、ぐるっと丸をつける。
よく分からないうちに合格になってしまった。うれしいはずなのに、なんだか無性に、不本意に思えてくる。
「ありがとうございました」
いつものお礼を言って振り返る。ソファの上、森村さんの座るすぐ横には、自分のトートバッグが放置されている。
入れ違いに、立ち上がってピアノに向かう森村さんと、一瞬視線が交錯した。
――どうしたらいい?
自分も彼女も、口をきゅっと引き結んだまま、一言も発しない。
分からなかったのだ。どうすべきか。自分も、そしてたぶん、森村さんも。
とにかく早く帰ろう。無造作にバッグを手にとって楽譜をしまい、部屋の扉を引き開け、振り返って先生に一礼する。
笑顔で「またね」とおっしゃる先生の向こう側、すでにピアノの前で椅子に腰かけた森村さんは、つんとすましたきれいな横顔で、じっと楽譜に見入っている。
*
部屋をあとにする。扉をそっと閉める。
レッスンの部屋はすぐ玄関の横にあった。
そわそわと靴をつっかけていたら、部屋からそっと音がこぼれてきて、思わず耳が引き寄せられる。
聞き慣れない音だった。自分の音でも、先生の音でもない。
それはたとえるなら、丸くて小さな音の粒。
朝露が葉からこぼれ落ちるしずくの、そのままの形で、音はひとつまたひとつ落ちて、静かな水面に波紋を描いた。
彼女の音色だと気付いたら、その音が急に何か意味のあるものに思えたから、自分はかがんで靴ひもを結ぶふりをしながら、じっと耳を澄ませたのだ。
(続く)