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「生」は偶然、「死」は必然

運は生まれつきのものだが、成功は努力して手に入れるものだ。

一般的にそう言われている。果たして本当にそうだろうか?

この時代に、この肉体を授かり、ここまで生きてこられたのは、様々な偶然の積み重ねによるものだ。もしかしたら平安時代を生きていたかもしれないし、そもそも人として生まれてこなかったかもしれない。人間であったとしても、大きな障害を患っていたり、人種が違った可能性も十分にありうる。

「1個体としての生」がどこに授かるかは、得体の知れない、おびただしい数を分母とした1分子である。この体で生まれてきたことはかなり可能性の低いことである。ちなみに、現代に生きている人間は、これまで地球上に存在した全人類のうちのほんの6%にすぎない。

蟻や蜂といった昆虫のような完全組織化された人生や、動物園や水族館などの見せ物化された人生も、サバンナやジャングルなど生存競争の激しい人生も嫌だ。もっと自由で居たい僕にとって、人間のような社会化され、様々な生き方が整えられてる生物は他にいないだろう。

この身体に生を授かったことを「偶然」と表現せず、なんと言えばいいのだろう?

そして、生き続けていることもまた、偶然である。大きな病、事故、自然災害に巻き込まれることなく生きてこられた。これも偶然だ。

生まれた場所も違えば、人生の選択もまた様々なものがあったであろう。もしかしたら自身の被害者になっていたかもしれないし、台風の被害に悩まされていたかもしれない。今、こうやってnoteを打っていられるのも、偶然のもたらした結果なのかもしれない。

人生の決断や行動は自分の意思で行っているものかもしれない。しかし、それらの選択肢やそうなるまでの過程には、多くの偶然がもたらしている可能性がある。ある本では、「あなたの成功は、本当の意味で、あなた自身が手に入れたものではないのだ。と述べている。

しかし、「生」の反対、「死」と言うものは必ず訪れるものである。これは命を授かったもの全てにおいて必然である。逃れることのできない運命なのだ。

さっきも言ったように、生きていることそのものが偶然なのだ。たまたま大きな病にかかっておらず、事故も避けられており、災害からも逃れられていたのだ。奇跡的に「生」が継続されているだけなのだ。「死」は常に隣り合わせに存在している。いつ「死」がきても、おかしくないのだ。

若い命も、年老いた命も、いつ亡くなるかは運命次第だが、潰えることは「絶対」である。

そう考えると、どんな逆境に陥っても「あ、これは運命なんだ」と思えば逆上しなくなるし、気持ちの切り替えも早く問題に対処できるようになるだろう。

それに、「いつ死ぬか分からないのだから、今日死ぬと思って生きろ」という時々みるこのような言葉は、こういう考えのもとに成り立っているのでは?

なんて思う今日この頃の俺だ。



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