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“I was born”=生まれさせられた?

確かに、「わたしはうまれた」を英訳すると「I was born」になる。

なぜ英語にすると受け身になるんだろう。生まれてきたのは私なのに。

今までそんなこと考えもしなかった。



堀静香さんのエッセイ。『せいいっぱいの悪口』

そこには「はみ出しながら生きていく」というタイトルのエッセイが収録されている。

その中で引用されていた吉川弘さんの「I was born」という詩について、いろいろ考えこんでしまったわたし。


引用されていた個所がこちら。

僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳をふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----  

なぜ英語にすると受け身になるんだろう。
そんなこと考えたこともなかった。
その時点でこの少年には敵わないと思い、ひとりで拗ねたりもした。


私は英語が嫌いで、今も嫌いだ。

そんな理解のない私だから、この詩を初めて読んだ時、心の奥まったところがぎゅうっと傷んだ。

なぜなら、少年は”I was born”が受け身であるという形態的な形だけを見て”生まれさせられた”と思っていたからだ。

自分がなぜ生まれてきたのか。意味なんてない。

自分はこんな世界に生まれたいと思ってたとは思えない。

彼はそう感じずにはいれなかったのだろうか。


そもそも文法的なルールも知らずにいたから、そこから理解しようと思いネットで調べてみた。

ふむふむ、「生まれる」は形態論的には受け身に見えるが、能動の自動詞の扱いを受けている…。


この曖昧さを知ると、単純に”生まれさせられた”なんて言えない気もした。

生まれさせられる面はあるのかもしれない。親の意思によって、子どもは宿される。
でも結局、産まれてくる際には母親だけが苦しむのではなく、子どもも痛みや苦しみに耐えながら出てくると聞く。
”生まれた”とも”生まれさせられた”とも言いにくい。


この世に生きる人間すべてが経験しているにも関わらず、誰もその本質を知らない。生まれてくるあの瞬間のことを。

そんないのちのゆらぎを繰り返して、「人間」という動物として生きていることが不思議でたまらない。


文法がすべてを表しているわけではない。とは思う。

文法が曖昧だから、特殊だから、「誕生」が神秘的とは言えないだろう。

しかし、英語以外のラテン語やギリシア語でも「生まれる」は特殊な態として表されるという。その事実はなんだかおもしろい。

こんなにも共通して「誕生」が特殊な態をとるのには、何か理由がありそうである。


私は幸せなことに、彼の様に本質を突き止めたくなるような経験をせずにここまで育ってきた。

“I was born”=生まれさせられた だなんて、考える気分になることもなかったし、疑問を抱くこともなかった。
けれど、この詩を読むといつも考える。

私がこうしてパソコンと向き合っていることや、水が飲みたくなること。お腹がすいて、よく甘いものを欲していること。好きな人ができて、その人を想いながら眠りにつけること。

すべてがありえないことのように思える。
奇跡みたいに輝く。

最終的に、せっかくなら”生まれさせられた”のではなく”生まれてきたよ私!”のテンションでいようかなと思うのであるが。


生まれさせられたのか、自分の意志で生まれてきたのかなんんて分からないけれど。
今日も私は充実した一日を送りたいと思い、キーボードをぽちぽちと打つ。

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