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わたしとソーシャルメディアの擬人化した付き合い方

今年に入って、世間の動きが、変化が活発化していますよね。わたし自身も、ここまでの6か月間を振り返っただけでも、だいぶ意識や行動の変化が大きいです。特に気づきが大きかったのが「ソーシャルメディアとの付き合い方」。わたしの中でイメージがどんどん変化しているのを一番客観的に感じられるのがこのテーマだと思ったので、できる範囲でまとめてみます。

きっかけは、ここ(note)が気づかせてくれた

利用者の多いソーシャルメディアには、サービスの特徴だけではなく、そのプラットフォームの「空気感」が存在します。わたしは、それが一種の「生き物」のように感じるようになりました。いまこの文章を書いているnoteも、わたしが使い始めた2019年の時に比べて「noteらしさ」を感じます。この「らしさ」が、おそらくわたしが感じる「生き物み」なのかと思っています。

わたしがnoteを使い始めた2019年の投稿を読み返しているとつくづく思うのですが、わたしは今でも「あの時のような雰囲気の記事」は書けますし、なんならこれを書いている今も、書きたいと思っています。だけど、もうこの場ではあのような記事は「投稿できない」のです。これは、わたしが「note」という存在と付き合うときに無意識にかぶる「ペルソナ」というものがあるからです。わたしは、noteの前では「人に読まれる意識」を勝手につくりあげてしまうのです。本当は日記のように使いたい、日々の気づきを気兼ねなく投稿したい、そう思って久しぶりにnoteを再開したのに、どうしても思っているような内容の記事が書けないのです。頭には書きたいことが浮かんでいるのに、それを文章に落とし込めない、どんどんと別の方向に道が逸れていく、ということが続いていました。そこで「記事」というフォーマットに拒否感があるのかもしれないと思い、つぶやき機能を使ったら、確かに「日々の気づきを気兼ねなく投稿したい」という理想は叶い、内容には満足したものの、ふとサイトを開いたときに目に飛び込んだ、ホーム画面にずらっと並ぶつぶやき投稿にどうしても違和感があり、落ち着かないのです。それもそのはず、だってここは「note」ですから。「書く場所」であって「つぶやく場所」ではない。たまにつぶやくくらいならいいと思うけど、あくまで「サプリメント」。主食(記事)を補うくらいがちょうどいいのです。では、わたしはどうすればいいのか。改めて「自分会議」を開きました。

人付き合いが変わるように、ソーシャルメディアとの付き合い方が変わってきた

「ソーシャルメディア」と「わたし」との関係性の変化は、すでに始まっていました。今年の春分が明けたあと、それまで大好きで、たくさん利用していたInstagramのアプリを削除したのです。わたしの場合、Instagramではまさに日記のように発信していました。写真がメインのソーシャルメディアなので、絵日記に近い感覚ですね。アルバムのように使用していた部分もあり、とても重宝していたし、ステキな友人たちとのつながりも、ここがメインだったので、わたしの生活に欠かせない存在でした。それが、今年に入って徐々にしっくりこないようになってきました。情報収集に利用もしておらず、自らの投稿にもハッシュタグはつけておらず、フォロー数も100未満、かなり「個人的」に使用していました。もう、ここには自分は合わない気がする、そう気づいてからは、最初の話のように、フィード投稿することができなくなってきて、ストーリーズのみ使用する状態が続いていたものの、ついにストーリーズも投稿できなくなってしまいました。そんな状況でも、スマホ上にアプリがあると、無意識にアプリを開いてしまい、意味もなく画面をスクロールする癖がなおらず、投稿できない原因も掴めないため、思い切ってアプリを画面上から削除したのです。

Instagramは、わたしにとってまさに「親友」のような存在でした。常に連絡を取り合って、近況を報告したり、体験を共有したり、とても仲良しだったんです。「親友」というかたちで擬人化したことで、これこそが、アプリを削除することになった要因なんだと今は思っています。

というのも、わたし自身がそのような人間関係を苦手としているのです。どんなに仲が良くても、距離が近くなりすぎると、あるタイミングで関係が途絶えてしまうのです。どうもわたしにとって「距離感」というものが結構重要みたいで、ここに関しては、現在進行中で自分会議の議題にあがっているため、まとまったら、記事にしたいと思います。

つまり、わたしにとってある種「依存」に近い感覚に一歩踏み入れてしまい、適切な距離感が保てなくなってしまったのではないかというのが、今の結論です。

離れるものもあれば、よりを戻すこともある

Instagramとお別れし、noteともまだぎこちない関係のわたしが行き着いたのが、そう、言わずと知れたつぶやきの拠点、Twitterです。実は、Twitterは2度もアカウントを削除しているほどの犬猿の仲。というより、くされ縁に近い感覚です。正直、わたしの性格やライフスタイルであれば、Twitterほど相性がいいものはないはずなのに、どうして2度も挫折を繰り返したのか。おそらくですが、今までTwitterの前でわたしはどこか「誰かとつながる」「誰かが見ている」という他者目線を意識していたような気がします。たとえば「自然体のわたし」というものも、どこか身構えている感覚。利用している人が多いソーシャルメディアがゆえ、大衆に向けたわたしでいようとしていたのかもしれません。だけど今回、noteのつぶやき機能を使ってみて、改めて「つぶやく」ということについて考えてみました。その結果、わたしにとって「つぶやく」とは「独り言」でした。つまり、そこにいるのは「わたしという誰か」であって「不特定多数の誰か」ではなかったのです。それに気づいたら、あら不思議。あれだけ苦手だったTwitterが、とても心地よい存在になったのです。

ありのままとは、見せ方が変わろうが失われないもののこと

わたしは今まで、いつでも「自分らしく」ということ大切にしてきました。見た目も、考え方も、伝え方も、どんな時も「わたし」というフィルターを通す感覚は常に持っています。ただ、それを「どんな時も同じように」と、どこか勘違いしている節がありました。どんな時も同じようになんて無理ですし、その考えはエゴの極みですよね。社会で生きるということは、たくさんの存在と共存すること。それぞれにそれぞれの波長があって、個性があって、共鳴しあうことで成り立っています。「わたし」という存在を一定の音域にとどめることなく、何オクターブもの幅を持たせたい。時には低音の落ち着いた声で説得力を持たせたり、時には高めの響く声で拡散力を持たせたり、そうやって表現を変えようが、すべて「わたしというペルソナ」であることに変わりはない。だからこそ、ソーシャルメディアとも、それぞれに合った付き合い方をしていこう。そう思えたら、わたしの世界がガラッと変わったのです。

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