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【小説】Oxymoron(オクシモロン)

梅雨。薄暗い体育館に幽閉されていたからか、雨上がりの夕暮れはこの世のものとは思えないほど美しく見えた。

僕は今日のホームルームを終えた後、一人で図書室へ向かう階段を登った。

一つ階が増える度に人の気配がなくなり、遂に誰もいなくなった五階に図書室があった。ドアを開けると、中には誰もいなかった。そして、窓から見える夕暮れの美しさにつられるように窓際の席に座った。

一人の時間が好きだった僕は、毎日ここで呼吸をすることができた。

参考書を開いて勉強をするフリをして、それを手元から少しだけ遠くに置き、隠すように文庫本を近くで開いてから、ノートに小説の執筆を始めた。

1年前に、県内の高校文芸コンクールで佳作をとってから、小説家として活動する将来の自分を妄想することが多くなった。

自分の中には成功する絶対的な自信があるのに、それは誰かに触れられたら壊れそうなくらい脆かった。

そんな臆病な自尊心だけが、握っているペンを走らせる勇気をくれた。

「また、小説書いてるの?」

無音の悲鳴が喧しい図書室で、携帯に彼女からメッセージが来た。

彼女との付き合いは中学生の頃からだった。友達に勧められ、本とは全く関係のない出会いで付き合うことになったが、僕が文芸コンクールで話題になる前から、彼女は僕の書く小説を面白いと言ってくれていた。

彼女は小説を書いている僕のことをただ見守ってくれた。佳作をとった時も、審査員の選評に腹を立てるほどアドバイスが嫌いだった僕を、何も言わずにただ見守ってくれた。

僕の自尊心は、自分自身ではなく彼女に支えられているのかもしれない。

「書いてるよ。」

「図書室?」

「うん。」

「行ってもいい?」

「いや、もう帰るところ。」

「じゃあ校門で待ってるね。」

「もう先に外出ちゃった。」

「図書室にいるって言ったじゃん。」

「ごめん、今そっち行くよ。」

なるべく努力している姿は彼女には見せたくなかったから嘘をついた。誰に理解されなくてもいいから、自分にとっての幸せを果たしたい。そんな冷たい情熱を燃やす僕の生き方で、彼女を殺してしまいそうだったから。

オレンジ色の白熱灯で照らされた明るい闇の中から逃げるように、彼女の元へ向かった。

校門へ行くと、片手でバッグを振り子のように前後に揺らしながら、もう片方の手で携帯の画面を見つめる彼女を見つけた。彼女は携帯の画面に夢中で、思いの外強く振ってしまったバッグに腕をとられ、バランスを崩していた。

恥ずかしそうに周りを見渡すと、その最中に僕を見つけて何事もなかったように笑顔で近づいてきた。そして、いつもの路地裏を二人で並んで歩き始めた。

「今、何してたの?」

「今?携帯見てた。」

「いや、バッグ振るやつ。」

「見てた?」

「見てた。」

「そういえばそんなことしてたね。」

「そういえばってなんだよ。」

「嬉しいことがあると嫌なこと忘れちゃうんだよ。」

「そうなんだ。」

「あ、なんで先帰ったって嘘ついたの?」

「それは忘れてないんだ。」

「それは別件、別件。」

そう言いながら彼女は、大きなジャンプで目の前の水溜まりを飛び越えた。すると、なぜか彼女の方が驚いた顔をして僕の方を向いた。

「今の水溜まり、結構でかかったよね?すごくない?」

そうして彼女は僕がついた優しい嘘の事は忘れて再び並んで歩き始め、今まで飛び越えた水溜まりの中で今日の水溜まりが一番大きかった話と、小学生の頃に用水路を飛び越えようとして足を骨折した友人の話をした。

「そういえば、本、何冊くらい読んだことあるの?」

彼女は、僕のペースに合わせて会話をしてくれた。僕の会話がゆっくりになると、黙って笑ってくれたし、僕が興奮して話し始めると、同じ温度で会話をしてくれた。

「好きな本しか読まないから、100冊くらいだよ。」

「すごいね、本当に小説書いて有名になっちゃうかもね。」

「でも、まだガキだし、勉強もそんなにしてないし。」

「でも大丈夫だと思う。面白いもん。」

その言葉を聞いてから、僕は空を見上げた。次に彼女の顔を見た時、悲しい顔で僕を見つめる彼女がぼやけて見えた。

「何で泣いてるの?」

なぜ人間には、見せたい時に見せたい感情を上手に出す機能が付いていないのだろうか。

「分からない。」

「大丈夫だって言ってるじゃん。」

「そうなのかな。」

「だって、」

彼女は、今までに見たことのない真剣な表情になった。そして、目を合わせるとすぐに逸らした。

少しの沈黙の間、彼女は顎に手を当てたり、頭をかきながら口を斜めに曲げたり、「うーん」と言いながら空中を見つめたりと、忙しそうにしていた。でも、その姿は、今まで見たことのある彼女の姿に戻っていた。

「本当に小説家が偉い人だけがなれるお仕事なら、頭のいい大学で小説の勉強をして、いい成績とった人から順に小説家になっているはずでしょ。」

「うん。」

「あの図書室の本棚みたいに、見上げるほどの本はこの世に生まれてこなかったはずでしょ。」

「うん。」

ただ頷くことしかできなかった。

「矛盾していてもいいんだよ。」

初めて本について話す彼女の狂うほどの優しさに、僕はただ驚いてしまい、一度で彼女の話を理解できなかった。

しかし、彼女が小説を書く自分に対して初めてアドバイスをしたことや、その内容が間違いなく近くで僕を見ていた彼女の言葉だったことが、何よりも嬉しかった。

「あれ、飛び越えに行こう。水溜まり。」

そう言って、並んで歩いていた彼女は後ろを向いた。

「嬉しいことがあると、嫌なことも忘れられるよ。」

二人でもう一度あの水溜まりの場所へ戻った。

再びあの水溜まりを前にした僕は、バッグをその場に放り投げ、勢いよく走って水溜まりを飛び越えてみせた。

彼女の方を向くと、彼女はお腹を抱えて笑っていた。

それを見た僕は、泣きながら笑った。

夕日が落ち、既に暗くなった夜空の下で、僕らだけが輝いていた。

※この物語はフィクションです。


こちらは、第7回文芸課題"ぶんげぇむ" 参加の記事です。

◆お題:「落ちる」「闇」「路地裏」
◆執筆ルール:
 ・お題に沿った作品を作ってください。
 ・小説/エッセイ/詩 などの形式・ジャンルは問いません。
 ・5つのキーワードを作品に登場させてください。ただし、文字そのものを登場させる必要はありません。

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