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自己紹介(+半生)

ワーカホリック・嘘・三森です。今回は自己紹介記事を書こうと思い立ちました。どうしてかというとですね、自分自身を客観的に見て(どうしようもないほど主観であるということはさておき)、これはあり得ないほど「ワケガワカラナイヨ」な人になっているのではないかと思ったのが始まりです。

私の数少ないお友達(と一方的に思っている)は私のことをご理解頂いているかと思います。自己紹介に慣れていなさすぎて(元々下手&コミュ障)、どう開始したらいいものかわかりませんが、とりあえず一から順を追ってご説明致します。

まず、私は義務教育を受けていません。高校はもちろん中学校も、そして小学校も行ったことがありません。これは某YouTuber様のように自分の意思ではなく(果たして意思とは)、父親の教育方針であります。子供の頃は親が自宅で託児所を自営していたので、年齢的に小学生に入るくらいまでは同年代の子供たちに囲まれて育ちました。蛇足ですが、いつもこういう話をする度に「小学生頃」といった表現を使いたいのですが、なにせ行っていないもので使えないのです。

半生を綴る勢いになりそうな予感がします。7歳くらいまでは特に自我もあったかなかったかのかよく分からないハナタレ小僧でした。年齢で言うと小学一年生の頃は、父親の元に集まってきたサラリーマンのおじさん達と雀卓を囲み、「ロン!」だとか「リーチ!」だとか言って麻雀をプレイしていました。父親は生活保護だったので時間は余っていたようです。

教育方針(?)というやつで、この頃は毎朝の日課で、弟と共に静岡は函南町の日守山に登っていました。印象に残っているのは、水筒に入れた味が劣化してゲロマズになっているインスタントコーヒーを途中の休憩所で景色を見ながら弟と一緒に飲んでいたことです。母に持たされたおにぎりがツナではなく中身が昆布だったときのプチ残念感を今でも覚えています。

学校に行っていなかったので、田んぼ作業をしているおじいさんに「学校はどうした!」と歩いている最中に突如怒鳴られたりと今思うと謎な出来事に見舞われたりもしていました。そんなこんなで私が中学生に入ったかくらいの頃に(便宜上中学生という表現を使います)父親がトラブルを街中で起こした結果、住んでいたアパートを追い出されるという事態が起き、静岡から千葉へ退却(?)することになりました。

つまり13歳~15歳頃になりますね。この間がひじょうにつらい時期でした。問題を起こした父親は拘置所に一年半ほど服役して、私が13歳の頃に出所したんです。それからというものひどい暴力が続くようになりました。一年半以上続き、いよいよ私も限界だとなったときに勢いで警察に電話した結果、児童相談所に入ることになり、今があります。

それから日雇いのバイトを転々としていました。16歳の11月に父親の訃報が入り、それを聞いたとき正直喜んでしまったのです。ようやく父親の影に怯えない日々がやってくる、と。生きている間は怖くてしょうがありませんでした。いつ、背後にいるかもわからず、母親に関しては千葉駅で見張っていた父親と間一髪すれ違うという出来事もありました。奇跡的に出くわさずに済みましたが、私と母と弟は毎日、父に捕まるんじゃないかと怯えながら過ごしていました。

父の訃報によって仕事を辞めました。不思議と糸が切れたようにやる気が起きず、死んでも仕事なんてしたくないという気持ちでその後を過ごすことになりました。働かなければいけない、母の力にならなければいけないという強迫観念はひじょうに強いものでしたが、体がまったく動かず、長い間、いわゆる引きこもり状態に突入しました。ここから時空が飛んで、その月日、約8年です。16歳から24歳までです。

当時、さすがにこのままでは嫌だと激烈な焦りがありました。時間を潰せる相棒といえばインターネットしかなかったのですが、ひょんなきっかけ(イケハヤさん)で坂爪圭吾さんと出会い、奇跡のJ字回復を果たしました。

坂爪さんの文章力により、上記の記事を読んでもらえるとかなり具体的に詳細がお分かりいただけるかと思います。ぜひ、読んでいただきたいです。拙い自己紹介なんてしなくても、最初からこの記事さえ紹介していれば話は早かったのかもしれません。しかし、どうにか自分の力でも表現してみたくなりましたので、もう少しお付き合いいただけると幸いです。

それから坂爪さんと行動を共にするようになり、全国各地を流転(流浪?)させていただきました。慣れない環境であったのでしんどいなと思うときもなくはなかったです。が、それ以上に刺激たっぷりで楽しい日々でした。今でもたまに思い出しては懐かしく思います。

その旅が間は置きつつも一年ほど続いて、坂爪さんは熱海や横浜に居を構えることになり、それからはたまに遊びに行ったりして、今でも仲良くさせてもらっています。これほど長く関係が築けたというのは私にとっては奇跡です。現在、31歳になりましたが、本当に人生が変わる出会いでした。

坂爪さんと出会った当初、これも奇跡的に今でも関係が続いている彼女との出会いも重なり、本当に連絡をして良かったと思っています。それくらい人生のターニングポイントでした。今まで色々ありました。桜の花摘みを手伝ったり、お話会に参加させてもらったりとほとんど端折ってしまいますが、自分から「やりたいです!」と言えば私を見つけてくれた人たちからボールが返ってきました。

現在、ちゃんとした職業に就いている訳ではないので、この話を美談にして終わらせることができないのが若干悔やまれますが、それはそれで今からでも頑張っていきたいというか、色々試していきたいと思っています。本当に飽きない世界だなと思います。何をやっても、まだまだ自分にとって新しいことが一杯で、つまらないと言うには早すぎるような、知らないことがまだ山ほどあるような、そんな気しかしないです。

年々、いい意味で自分が小さくなっていく感覚があります。愛する自我とお別れして解脱までする予定はありませんが、詩を書いてみたり、友達の曲に合わせるようにして歌詞を書いたり、こうしてnoteの記事を更新したりしていると書いてみるまでは書けないと思っていたのに、気付いたら、どんどん言葉になっていて楽しいです。自分が小さくなるほど、世界が大きくなっていくようです。

自己紹介というより本当に半生を綴ってしまいました。オリジナリティなんて言えるほどの自信は持っていないけれど、今は、自分を出していくことに興味があります。創作もその一つで、それ以外にもTwitterで考えをツイートしていったり、詩的な表現を遊び心で模索したりと、ありがたいことに暇だなとか退屈だなとか思うときは少ないです。

義務教育を受けていなかったり、虐待を受けて育ったというのは響きとしてはインパクトはありますが、自分ではそこをガンガン主張していきたいとはあまり思っていません。もちろん言えることは多々あるかと思いますが、30歳も過ぎれば、皆と同じだなあと思います。同じ人間、同じ時を生きているのだなと。語弊があるかもしれませんが、過去の話よりも今を共に同じ大地を踏み締めて生きていたいです。

生活はギリギリなんとかなっているので、これからも言葉を愛しながら、ブログや詩(詞)を書いたりして臆さずに発表というか、どんどん投稿していきたいと思っています。自分にできることは相当限られているし、根っからコミュニケーションに苦手意識を持っているので、みんなと出会ってパーリナイとはしゃぐのは難しいけれど、もし、何かあったら、DM等でご連絡をいただけると何かしらの反応ができるかと思います。

袖振り合うも他生の縁。一瞬の出会いだったなと悲しむことはしません。むしろ、一瞬交差できたことがものすごく奇跡的なことだと思います。同じ時代に生まれて、同じ言語で会話ができること。あまりにも確率の低いこと。まだまだ思い詰めた顔で生きている日々も多々あるけれど、だって人間だもの、落ち込むときくらいあるさ。元気がないなら元気がないなりに生きていきましょう。

繋がっているようで繋がりは希薄な世の中にも思えるけれど、苦しくなったら、たまに親しい人の顔でも思い出して元気かなと空に思いを馳せたり、実際に連絡してみたりして、色々アタックしながらチャレンジしながら、その度に砕け散ってはまた復活してを繰り返して、最後には健やかに清々しく人生を全うできたらいい。泣く道を選ぶか、笑う道を選ぶか。どちらにしても神様は微笑む。でも、できれば微笑みを忘れずに生きていきたいな。

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