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みっつ通信

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慣れ親しんだ日々を、日々、書き換えようと模索しています。
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#やる気

一貫性なんてなくていい

Twitterは140字以上は書けないので、それなら長く文字の書けるTwitterとしてnoteを使ってみようと思い立った。ブログだとアカウント作成が面倒くさい。noteはエディタを開けば「書くだけでいいんだ」と思える。だから使っている人も多いのだろう。 唐突だけど生まれて物心がついてから10代半ばまでずっと猫と暮らしていた。猫がそばにいたからインドア派になったのか、インドア派だから猫が好きなのかわからない。そういう性分が今でも続いていると思う。 よく犬派と猫派で分かれる

「いい人」は失敗する

昔から、私の脳内には「敵」がいる。それが誰なのか未だにわからない。何かを頑張ろうとすると、その敵から、「頑張っちゃってるね」と言われているような気分になり、頑張っているのがバカらしくなったりする。不毛な戦いに明け暮れているような気分になる。しかし、振り返ってみると頑張っていた時期は尊く感じられるというか、あの日々があったから、今年は気持ちよく締めくくることができるなという安堵感を与えてくれる。ので、ぜひとも張り切って頑張りたいことは頑張っていきたいと思うのだが、そこでいつも邪

君は一緒に行きたいと思うか?

現代では、やりたいことをやるには空気を読まねばならず、やらないならやらないで息苦しくなる。――停滞する日々において、現状を打破するには、どうすればいいのか。 結論から述べれば、人生とは「やってみるの連続」であったらいいと思っている。 何事もまずは軽い気持ちでやってみて、その都度ダメージを受けたり受けなかったりしながら、自分の在り方を探っていく。 それから普段は身を潜めつつ、やりたい欲が疼いてきたところで空気にひびを入れにいく。充実するには、その繰り返しかなと思った。

それでも自分の道を切り開いていこう

創作や表現における、自分の在り方を考えている。元々、自分がやりたくて始めたことなのに、気付くと他人からの承認を待っていたり、当初志していた目的から外れたりしてしまう。時折、何のためにやっているのかがわからなくなり、やる気が減退する。初心を思い出すためにも、自分と同じような生みの苦しみを抱えている人のため、また自分のために創作するということについて創作していきたい。 目的がすり替わる最初、詩やブログをやり始めたのは、ただそれがやりたいという理由だけだった。目的=自分のやりたい

努力は不要か

自分でも気持ち悪いなというくらいnoteの更新頻度が高い。そんなことを書くと、意識化され更新するたびに「うわ三森さんまた更新してる」とより強く思われそうで怖い。ということを書くと、「うわ俺自意識過剰で気持ち悪」となり、結局、自分のことを気持ち悪がるという無限ループに入り込む。 アインシュタインの言葉に、「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる」という名言がある。自分がちゃんと学べているかはともかく、書け

もう一度この人生でいいのか

無人島にいる。このままじゃ寒くて死にそうだ。早く火を起こさなければいけない。適当な枝を拾い、一生懸命、それを両手で回す。やらないと凍え死ぬ。やるしかない。ようやく火種ができる。感動している場合じゃない、今までの努力を台無しにしないよう、火口に移動した火種に素早く息を吹きかける。ボワッと燃え広がる。前もって集めていた枝にそれを投入し、焚き火を作る。これでようやっと体を暖められるぞ。それに魚だって焼ける。 けっこうテキトーに書いてしまったが、こういうイメージが突然、頭に浮かび上