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「いい人」は失敗する

昔から、私の脳内には「敵」がいる。それが誰なのか未だにわからない。何かを頑張ろうとすると、その敵から、「頑張っちゃってるね」と言われているような気分になり、頑張っているのがバカらしくなったりする。不毛な戦いに明け暮れているような気分になる。しかし、振り返ってみると頑張っていた時期は尊く感じられるというか、あの日々があったから、今年は気持ちよく締めくくることができるなという安堵感を与えてくれる。ので、ぜひとも張り切って頑張りたいことは頑張っていきたいと思うのだが、そこでいつも邪魔する。「こんなことをしていても意味がない」、「俺一人だけで頑張ったところで何も進展しない」。

逆のパターン(何もしない日々を過ごす)では見えない敵の声は聞こえてはこないが、普通に退屈するので停滞する日々が嫌になってきて、苛立ちやすくなる。熱量が有り余っているのかなとも思うが、ぶつけどころを間違えると争いにしか発展しないのでエネルギーの出しどころをよく考えるようになった。ブログを書いたりすると妙な反動はある。あんなことを書いてしまった、誰かの気分を悪くさせたかもしれないなとか。余計な思考に苛まれ、結果的にいつも同じ答えに落ち着く。「やらないほうが無難」。

ただ毎回、見えない敵にやる気を貶される度に思うのだが、やったところで何かを失っている訳ではないのだ。むしろ、徐々に自分の意見を出すことへの抵抗感が減っていったり、余っていたパワーを放出できたりもしてメリットだらけだ。デメリットはほとんどない。その"ほとんど"の部分の内訳といえば、見えない敵に至極、罵声を浴びせられることにより、メンタルが消耗するくらいだ。しかし、アウトプットは良い。その都度、自分でも毎回のように気付きや発見があり、「次は改善するぞ」とどんどんやる気が湧いてきて素晴らしい日々を過ごせる。

だから、結論はもう出ているのだ。「やろう」。それだけだ。"やれ"ば、やったことが自分に合わなかったかどうかもすぐに判別できる。昔、渋谷で携帯ショップのスタッフのバイトを前日の夜にドタキャンするという、所謂、「やってはいけないこと」をしてしまったことがある。バイトを振ってくれた方がひじょうに人格の優れた方だったので、後日居酒屋で飲みましょうとお誘いをしてくれた。「やばい」という緊張を持ちつつ、快く承諾した。当日、のうのうと現れた私に対して、その方は「普通だったら顔を出せないと思う」と言った。その語り口に軽蔑心は微塵も感じられなかった。

腹の中でどう思っていたのかまでは見透かせはしないし、見透かしたくもない。本当はどう思っているかなんて詮索しなくてもいい。相手の雰囲気と言葉だけで充分伝わってきた。恥ずかしいことをしたと思ったけれど、私は、自動的に学ぶことになった。「最初からやりたくなかったんだな」と。やりたいと思ってやろうとしたのではなく、やらなければいけないと思ったからそうしたのだ。その結果、自爆した。情けなかったが、あれから同じことは繰り返していない。

何かをやる度に、「やんなきゃよかったかな」と思う。最初からやろうとしなければ、恥をかくことも情けなくなることもなかった。それでも、やってみようとしたからこそ、自分のことを掘り下げることができた。開き直りに過ぎないが、いずれにせよ人間は後悔をする生き物だ。何もしないままの後悔よりかはやってみて失敗したほうがいくらか気持ちは楽だ。他にも色々、時折思い出しては頭を抱えたくなるようなこともある。その痛みによって、もう傷つきたくないなと思ってしまうこともあるが、どうせいずれにせよ傷つき、失敗するのだろう。それならば、やってみたほうがいい。時は傷を癒やす。かさぶたが取れる頃には、傷は経験という資産になっている。

見えない敵はいつも頑張る私に向かって、「滑稽だね」とささやく。が、そいつは悪魔か天使かで言うなら、前者である。しかし、面白いことに悪魔のおかげで頑張ることができている。「なにくそ根性」でやる気が漲る。何もしないなら何もしないで経験を重ねられない自分のことを哀れに思うし、やったらやってみたで傷だらけにもなる。それならもう勢いでやっちゃって、だめならだめで「はい次!」という意識を忘れずに持っていたいと思う今日この頃だ。何かをやれば、知らない内に誰かに嫌われていたり、誰かを傷つけていたりしてしまうこともあるだろう。が、それは自分には到底コントロールのできないことだ。「すみませんね」と言って前を素通りしていくしかないのだ。

合わない人とは距離を取るしかない。「いい人」でいようとするほど、イメージを大切にしようとするほど、人は心を失っていく。私は、心のある人が好きだ。病んでいても悩んでいてもいいじゃないか。それが心だもの。強く惹かれるのは、病みながらも悩みながらも前進しようとする人だ。何かをやるのに見栄はいらない。稚拙な内容でもいい。やってみてからわかることは物凄く多い。やらないで勝手に傷ついているより、やってみて傷つくほうがいい。心を持っている人は、多くの困難を乗り越えている印象がある。私は心を感じて生きていきたい。

人間は自然と「いい人」になっていってしまうのだと思う。しかし、世界が望んでいるのはいい人ではなく実は悪い人のほうなのではないだろうか。ずるい人、何をしているかよくわからないミステリアスな人に惹かれてしまう人も多いのではないだろうか。どんな人も失敗をしまくって学んでいる。大切なのは現状維持ではなく、ほんの少しだけだとしても成長できていると実感しながら生きていくことではないだろうか。前より少し人を好きになったとか、好きな人が増えたとか、ギターや絵が上手くなったとか、もうそれだけで立派な行進だと思う。

生きるということは巻き込むということだ。もう、しょうがない。いい人でいることはやめて、どんどん巻き込んでいくしかない。私の勝手により巻き込まれた方にはしっかりと懺悔しつつ、亀の一歩だろうが進んでいく。恥の意識に飲み込まれ、世界はクソだと嘆いていては埒が明かない。それでは気休めにしかならない。開き直ろう。必要なのは気休めではなく気晴らしだ。人間は弱い部分で繋がる。いい人でいる限り、弱さは隠してしまう。嫌われない人は好かれもしない。自分の中にある汚さを受け止めてくれる人とだけしか繋がれない。だから、これからも汚いままでいようと思う。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。