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欲望と承認の時代

昔、ぼくらの親や祖父母の人たちが
生きていく理由は、「食べるため」だった。
働くのも、食べてさえいければ
なんでもいいくらいに思っていたらしい。

そんな時代の人たちからしたら、
現代人の「働く理由」が推察できるだろうか。


ぼくも、その時代に生まれていれば
食べるために働いていただろう。

しかし、今の時代で生きているぼくは

ただ、食べていくためだけに働いて、
それで、生きていく喜びはあるのだろうか
と思ってしまう。

これは、決して極端な話ではない。

今や「食べていくため」に就職活動をする
学生や若者は少ない。
よって、ただ生きていくために働く人も少ない。



もちろん、貧困や病気など
なんらかの特別な
事情を抱えている人は別だ。

そうではなくて、世間一般的な話で
「ただ食べていくだけ」以外に
目的意識を持って
働いている人が大多数な気がする。

ただ食べる、住む、などの
「衣食住の欲求」は
すでにほとんどの人が満たされているからだ。

昔の人たちはそういう「基本的な欲求」を
満たすために働いていた。
そういう人たちがほとんどだった。
だから、ただ飯が食えるだけでも幸せだったのだ。

昔の人が「欲求」を満たすために
働いていたのだとしたら
現代人は「欲望」を満たすために
働いていると言っていいだろう。


フランスの精神科医であるジャック・ラカンは
「人間の欲望は他者の欲望である」
という有名な言葉を残している。


どういうことかというと、

自分にとって欲しいものを思い浮かべて
「なぜそれが欲しいか」
という理由を言うときには、
必ず他者の欲望が入っているというのだ。

欲望は自分の中から
勝手に湧いて出てくるものではなくて
自分以外の他者から取り入れて、
それが自分の欲望になっている。

逆に言えば、他者と接することをしなければ
欲望は出てこない。
他者のいないところに欲望は存在しない
という具合だ。

自分が子どもだったときを
思い出してもらったら分かるが
子どもの頃って、みんなお金をもっていないし
好きなものもなかなか買えない。
ゲームもおもちゃも綺麗な服も行きたいところも、
なかなか思うように買えないし行けない。

けど、それを欲しいと
思うようになったキッカケって、
「みんなが持っているから」とか
「みんなが欲しがるから」とか
「みんなが良いっていうから」とか
だったと思う。

すでにこの頃から
他者の欲望を取り入れているのだ。

なるほど戦時中の頃だったら
みんなの欲しがるものは「食べ物」とか
「安心して寝られる部屋」だったはずだ。
みんなの欲しがるものは「欲求」のレベルだった。
それをみんな取り込んでいた。

それが戦後からどんどん
生活が豊かになるにつれて
みんなの「欲求」は当たり前のものになり
みんなが欲しがるものはそれ以上の
「欲望」になった。


その一方で
「みんなが持っていないものが欲しい」
という人も多いだろう。
「人と被らないものが欲しい」などは典型である。

でも面白いもので、その気持ちも実は
他者からもらった欲望なのだ。
なぜなら「みんなが持っていないものが欲しい」
という欲望も「みんなが持っているから」である。


こういった「欲望」についてだが、
これは今風で言うと
「承認欲求」って言葉につながっていると、
ぼくは思う。

つながるどころか
いろいろな欲望の基といってもいいくらいだ。
実はほとんどの人の欲望の根元には
「認められたい」って思いが蔓延っている。

そうすると、
そこで避けられなくなってくるのが
他人との比較だ。

「あの人より〇〇ができて、
〇〇は劣っていて、、、」など
必ずそこには相対的な考え方が入り込んでくる。
その根っこには、他人からみた自分の評価が、
すなわち承認欲求がある。


これほどまでに
人が人と比べる社会になっているのは
そんな承認欲求と欲望が、
キーワードになっている。

そんな現代人たちに
「人と比べなくていいよ」と言うほど
無意味で虚しい言葉もないだろう。


こういう欲望って、
その人の能力面とかが関わってくるから
人によったら、意欲とかエネルギーにつながる
大切なものだけど
人によったら「生きづらさ」にもなるだろう。

そういう人からしたら
「したいけどできないこと」が多くて
実際の能力よりも高い理想を追い求めてしまう。

だから、文明がどんどん発達していくにつれて
みんなの生活の便利さや娯楽になるけど、

その一方で「生きづらさ」を抱えていく人も
確実に増えていくだろう。


そんな時代ではあるけれど
生きづらさを覚える人も
無理をせず、生き延びてほしいと願う。

同じ生きづらさを持った人たちもいる。
「ぼくたち」は独りじゃない。

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