見出し画像

孤独は人のふるさと

誰かと同じ布団で寝ていても、
その人と同じ夢を見ることはできない。
相手の夢に入っていくことはできないし
自分の夢に入ってくることもできない。


どんな関係性かは関係ない。
彼女であろうが、
そうじゃない相手であろうが。
家族や友人であっても。

こういうのを、同床異夢というらしい。

数年前、当時の彼女と同じ布団で寝たとき、
かなり印象的な夢を見たため、
寝ぼけながら報告したが、
彼女の方は夢を見ていなくて、
それでその場は流れた。

何気ないやり取りだが
そのとき「結局、人は独りなんだな」と
思ったのを覚えている。

それと同時に、肌と肌を合わせるだけではなく、
気持ちと気持ちでも濃いつながりを
求めてしまう自分に気付いた。

でもそれは叶うはずがなく、
自分にとって近くにいてほしいと思う相手と
接すれば接するほど
一体感を求めれば求めるほど
孤独感や淋しさを感じる。


こう感じてしまうようになったのは
必ずといっていいほど、
近くにいてほしいと思い始めた相手は
間もなくぼくから居なくなったからだろう。

居てほしいと強く思えば思うほど離れていく。

居てほしいと思って、
それでぼくのところに居た人は1人もいない。
一時的には居たが、必ず離れていく。

経験則から言えば
もう繰り返したくはないから
自ら独りを選んでいるのに
「もういい」と何度思っても
また同じ道を繰り返しているから
まったくたちが悪い。

このことはなにも恋仲だけに限らない。


例えば仕事に関して言うと、
ぼくは職業的には「頼られる側」である。
腐っても、一応カウンセラーだから。

ぼくを頼ってくれるのは、
主に子どもたちで、
あとは保護者とか、先生たちだ。
この頼る側と頼られる側の相互性で行けば
たいへんスムーズである。

ただ、その関係が一旦落ち着くと
面接以外や、プライベートの場面でも
その子たちと会う機会がある。
そうなると、職業上以外でも
関わりを維持したくなってしまう。


要するに、今度はぼくがその子たちに
「頼る側」になってしまっているのだ。

そうするとどうなるか。


簡潔に言えば、例外なく離れていく。
正確に言えば、向こうからしたら
「カウンセラーの先生」のままだから、
それ以外の姿を見せられても困る。
といった感じだろうか。

推測だけど、あながち的外れではないだろう。

カウンセラーに限らず、ある程度誰かに対して
心を砕いたことのある人なら、
「ずっと覚えておいてほしい」とか
「頼られ続けたい」という欲望を
自覚することが、一度はあるだろう。

けどもはや「頼られたい」と思う時点で
その人に心理的に「頼っている」のだ。

考えてみれば
クライエント(相談者)の立場からすれば
「カウンセラーに相談しに行っていた」
という過去は、できれば
無かったことにしたいと思うのが自然だろう。

だから、カウンセラーは
「忘れられること」を前提に
クライエントと関わらないといけない。
もしかしたら、カウンセラーは
クライエントにとっては
一時的な飲み薬であって、
処方箋の役割を担う存在なのかもしれない。
良くなれば、もう必要がなくなるのだ。


結局、カウンセラー自身も、孤独でありながら、
誰かの孤独を支えないといけない。
だから自分の孤独や淋しさ、虚しさを自覚して、
自分で自分を癒す技術を身につけないといけない。
そういう仕事なのだと、割り切るようにしている。



ちょっと話が逸れてしまったけど
「こっちが求めれば離れていく」
という点においては同じだだろう。

どうやらそういう法則は本当にあるらしい。
32年間の人生の中で、身をもって経験した。


ぼくはたまに、
気が狂うんじゃないかと思うくらい虚しさや不安に
襲われることがあるが、そういうときは無意識に
身体を丸めてしまっている。

あるとき、何かで胎児の写真を見たとき、
「あぁ、人って生まれる前から淋しそうだな」
と、思ったことがある。

だから人って本当に淋しいときは、
思わず胎児と同じ姿勢を取るんだと思う。

昔、病院勤務していたとき、
高齢者病棟にいる患者さんたちの
横になっている姿は、
まるで胎児のように丸まっていたことを思いだす。

坂口安吾という小説家が
「孤独は人のふるさとだ」
という言葉を残している。

人は孤独に生まれて、孤独に死んでいく運命に
あるということだろう。




おそらくぼくは一生
孤独感から解放されることはない。


今までの人生で、まったく孤独感や
淋しさを感じなかった日は
おそらく1日もない。

32年、生きてきてそうなのだから、
もう揺るぎないものになっている。
自分の臓器の一部くらいに思ってる。



それでも誰かを頼ったりすることは
繰り返すだろうし
自分を頼ってくれる人も求めてしまうだろう。

一人では生きていけないことは
分かっていながら
誰かを求めるとまた淋しさを味わう循環。
いやだと思っても繰り返される。


本当は誰かと一緒に居て
解放される淋しさなんかないのかもしれない。

それを恐れず、生きていくしかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?