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21:たとえ結果が「わかる」だったとしても、解像度の高い「わかる」を。


あいかわらず、最近のBGMは、「ばらの花 × ネイティブダンサー」です。

あれ、こんなやわらかい声だったけ。とサカナクションを再度聴いたりします。

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私の仕事は、過去に不特定多数の誰かが起こした行動を可視化したり、まとめたりして、データをわかりやすく人に伝えること。

データを可視化することでうまれるのはわかるもしくは、思っていたのと違うのどちらか。

みんなの頭の中にあるイメージがきちんと現れることもあるし、思ってもみない結果が、モニタの中に映し出されることもあります。
前職にいたときは、お客様から仕事を受注して仕事をしていたけど、今は、事業会社の中で、どんなデータをどういう風にみれると嬉しい?それはなんのために分析したい?と聴きながらカタチにする日々。
そんな中で、わかるばっかりの世界をよしとしないことがあります。

それはわかったから、もっと夢のある結果を見せてよ、とか。
それはわかったから、じゃあ自分の腕を信じて、進んでいけばいいよね、とか。

本当にそれでいいのか?
分析、可視化という仕事は誤解されていることばかりじゃないのか?
そう、常々思います。

どうしたら解消されるかはずっと悩んでいるけれど、自分の中の今の最適解は、ゆっくりと伴走する姿勢。
80点を100回取り続けること。
安定して、80点を取り続けると、自分の不安定さより、もっともっと安定したなにかに気づいて、あれもみてみたいなぁとか、これをみてみたいなぁと思ってくれるのです。

それって、どこにいても最高に嬉しい。
たとえそれが、目に見えるわかるだったとしても、実は「なんとなくわかる」からの「わかる」かもしれないんです。

わかるって大事やからこそ、解像度の高い「わかる」を。
私はそこにこだわっていきたい。



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