新しい封建制とは?
最近、気になった本を二冊読んだ。読みながら思ったことなどを記しておきたい。
「新しい封建制がやって来る」ジョエル・コトキン
著者はカリフォルニア大学で都市社会学を研究している人物である。コンピュータと通信技術の発達および並行して進む脱工業化・知識社会化によって、中産階級は没落しプロレタリア化すると同時に富は一握りのエリートに集中する。インテリつまり知識のある教育された人々は、エリートたちが富を独占することを正当化する、中世の聖職者のような役割を担うと世界の経済と社会の趨勢を分析している。
ディストピア的な未来像だが、私見でも1980年代以降に先進国で実際に起きてきたこと、現在も進行中のことだと思われる。第二次大戦後に日本では農地改革によって農民が自立化し、モーターリゼーションが進むとともに都市化と工業化が一気に進んだ。このフェーズでは生産性が大幅に向上したためにインフレと所得増の好循環が生まれた。消費者の購買力が増し、自家用車と電化製品に囲まれ、和洋折衷した近代的な家屋に核家族が住む生活様式が普及した。今や死語だが一億総中流という言葉さえあったのだ。
変調はバブル経済の破綻だった。その回復には長い時間を要し、新卒者には就職氷河期と呼ばれる時代が続き、非正規雇用が広まったことによって格差が広がったと一般には捉えられている。だが、それは事実の一部であり、より深層では本書が指摘するとおり脱工業化と知識社会化が進んだのだ。
かつて、全国に工場が建設された昭和の時代には、標準化された作業を卒なく丁寧にこなすことによって産まれた製品が、そこで働いた人たちの懐をも潤した。だが、経済成長した日本は円安が是正されたことも相俟って工場を海外に移転し、国内には開発や設計など知識とITを用いる上流の工程および、共有された暗黙知が必要な素材産業など一部の製造業が残るところとなった。
経済のソフト化・サービス化とも言われるフェーズでは、モノづくりに直接従事する就業者は減少し、前述したように企画・設計・開発など上流の知的思考業務や、法律・会計・マーケティング・IT・金融など専門知識に基づくサービス業務に付加価値が高く分配され、その他の対人的あるいは熟練を要さないサービス業務は市場競争の原理によって付加価値が分配されるに留まる。
こうした社会の基層の変化が今見られる格差の背景にあると考えられる。米国のトランプ氏は、そうした趨勢の反転、すくなくとも是正を図るもののように見えるが、彼が再び大統領に返り咲いたとしても成功するかどうかは心もとない。しかし、この趨勢の行き着く先は、社会の分断・階層化・閉塞化であろう。それを、なんとか遅らせたい、緩和させたいと著者が考え、本書を世に問うたものと受け止めた。
「裏道を行け ディストピア世界をHACKする」橘 玲
著者は金融と経済の情勢に詳しい作家で、元『宝島30』の編集長でもあった。本書は、2021年に講談社現代新書として刊行された比較的最近の図書である。
グローバル化と知識社会化により厳しい格差が生まれ、さらにITとSNSの発達によって、生きづらい世の中になっているという認識は前掲したコトキンと共有しているが、本書は1960年代のヒッピー文化から説き起こして、主に米国を中心に人々がどのように愛、富、承認欲求などを満たそうと試行錯誤してきたか事例を筆致豊かに描いている。
男目線で平たく言い換えると、女性と金と自尊心を満たすための勘違いを含めた涙ぐましい努力と、その末の迷走のクロニクルである。女性にモテるにも格差があるが、かつてはナンパ師などという専門家?がいた。そのテクニックを商売にしていた人もいたようだが、それで貴方は本当の愛情を得られたのですか?と問いたくなる本末転倒な状況もあったという。
そんな話を縷縷述べながら、社会というシステムに搾取(HACK)されるのではなくて、自らの人生を攻略(HACH)すべきなのだと著者は説く。しかし、世の中は先に述べたとおり、どんどん高度化しており、ただ生きているだけでは落伍していく。知識と能力を磨いて常識やルールの裏道を見つけて生き抜くべきだと言う。
とは言うものの著者も過去の事例はたくさん紹介したとて、これからのことはあまり具体的に書けるわけもない。コトキンの問題意識に接続する視点でまとめると、ディストピアを生き抜くために専門的な知識や技能を身につけたフリーランスがネットを利用して緩やかに結びついて経済活動を行い、ほどほどの生活で満足する社会の到来に橘氏は光明を見出しているようだ。
江戸時代を振り返る
コトキンも橘玲もディストピア的な社会を予想する。しかし、一握りの富者が基盤とする市場経済は民主主義と法の支配の下で成長して来たもので封建制と両立しない点で、民主主義がどこかで歯止めをかけるのではないか、という期待を抱きたくなる。
反面、今のように民主的な社会は第二次大戦後に到来した浅い歴史しかないことも事実である。ならば、民主主義が後退することもあり得るのかも知れない。ローマも五賢帝時代は、形式的には元老院と市民に主権が存する元首政だったのが、コンスタンティヌス大帝に表象される軍人皇帝の時代には皇帝専制の政体となり、職業が固定した国家社会に変貌していた。世界には、まだ民主政を経験したことがない国もあるし、選挙権を与えられても行使しない(一部の)日本人にとっては政治のありようは、そもそも関心の外にあるのだろう。民主政も相対的な体制なのかも知れない。
持てる者と持たざるものの格差がより大きくなり、持たざる階層から上昇する可能性が低くなった世の中が来た時に、庶民はどのように身を処していけばよいのだろうか。橘玲が述べているように専門的な知識や技能で武装し、ネットを通じて仲間をつくって経済活動を行い、ほどほどの生活で満足するしかないのかも知れない。
おそらく、そうした人と人との結びつきの中にも、親分−子分に似た封建的な関係が忍び込むかも知れないし、そもそも、専門的な知識や技能で武装することも能わずという人もいるだろうが、話を広げるのは止めておく。
課題は満足できる「ほどほどの生活」って何かということである。衣食住に贅沢を求めないことは言うまでもないが、ミニマリストと呼ばれるような人たちが一部の人の注目を集めているのは、近未来の予兆かも知れない。
物質的に贅沢を求めないにせよ、 「ほどほどの生活」とは「ほどほどの文化的生活」でありたいものである。江戸時代が終わってから、まだ160年も経っていないが、封建的な社会の中で 浮世絵、落語、歌舞伎などが庶民の娯楽となり、さらに、茶の湯、遊芸、祭などの行事も盛んに行われ、町人の生活を彩っていた。江戸時代の成人男子の習い事としては、三味線、小唄、端唄が人気であり、義太夫、長唄、清元、尺八、筝、三味線などの稽古場に通う人もいた。
今後、世の中が変わっていっても庶民には庶民の文化的生活がありうるのだと思いたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?