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歴史は繰り返す

 「1914年に第一次世界大戦が起きてまもなく、英国の歴史家アーノルド・ジョセフ・トインビーは、大学の古代史授業でペロポネソス戦争史の作者トゥキディデスを講じていた。そのときトインビーは、自分たちが経験中の戦争が2300年前の古代ギリシャの戦争とそっくりであり、トゥキディデスがすでに経験ずみの歴史であるという霊感にうたれたのである」と産経新聞への寄稿の中で紹介していたのは、歴史学者の山内昌之氏である。

 これは2016年4月25日に掲載された【歴史の交差点】というコラムにおいてであった。当時、欧米の西側世界とロシアとの間で国際的な緊張が懸念されていた時期であり、山内氏としては中東における紛争を地域的なものと考えていると新たな世界大戦の火種を見逃すことになりかねない、という警鐘を鳴らす意図をこめたように思われる。

 そのことはさておき、私は最近、ものの本を読んで似たような感慨を覚えたのだった。それは図書館から借りた本で、山川出版社による「大学の日本史1 古代」であった。三人の著者が20の章を分担執筆した中で、主に佐藤信氏が執筆した、聖徳太子から天智天皇の大化の改新を経て、天武・持統天皇にいたる中央集権国家としての日本が成立する過程の歴史について新たな視点を得た思いがした。

 私が若い頃に読んだ本、たとえば井上清による「日本の歴史」は、この歴史を日本の未成熟な豪族連合国家が内発的に成長して、総体的奴隷制ないしアジア的専制という新たな発展段階に至ったプロセスとして描いていた。生産力という土台の発展に合わせて、上部構造もそれに見合ったものに再編成されたという見方である。

 そういう見方も一面真実であり否定するものではないが、前述の「大学の日本史」では、東アジアに中国大陸を統一する空前の大帝国「隋」が成立し、その勢力に呑み込まれないように、大陸の文明と統治体制を積極的に導入すべく古代の統治者層がさまざまな思惑で動き、権力闘争の末に強力な中央集権国家の体制を築いた歴史として描いていた。

 そうしてみると、古代の中央集権国家の成立の歴史は、江戸時代の終盤に西洋諸国から開国を迫られ、国内の権力闘争の結果、西洋文明を導入しながら近代的な中央集権国家を樹立した明治維新の歴史と重なるような不思議な気持ちがしたのだった。

 私達にとって明治維新は比較的最近の歴史であり、客観的な研究も多数なされている。それに対して、聖徳太子による仏教導入や十七条憲法、蘇我氏による専横と乙巳の変、天智天皇の百済支援のための半島介入、天武天皇による壬申の乱とその後の律令国家への歩みの加速など、今となっては客観的な歴史の復元は困難で、解明されずに残る謎は多いだろう。

 しかし、明治維新の歴史を手がかりにすることで、古代の歴史をより深く考えることができるかも知れない。また、律令国家が王朝国家を経て院政に変質した歴史、鎌倉・室町・江戸の各武家政権が倒壊して次代に移行した歴史が自分たちの生きている時代の行く末を考える材料になるかも知れない。

 やはり、歴史は繰り返すのではなかろうか。マルクスは一度目は悲劇として、だが二度目は喜劇として、と皮肉を込めて言ったものだが、他方でビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言を残した。

 かつて、堺屋太一氏が、往時の米国とソ連の対立を、シーパワーで民主的なアテネとランドパワーで専制的なスパルタの対立と戦争に重ね合わせて考察したことがあった。歴史そのものの研究者ではない、私のような一般人にとって歴史を学ぶ意味はそういうところにあるような気がする。

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