抱擁

 大好きな人がいた。
 朝起きたら、その人のことをまず真っ先に思い浮かべた。恋愛ソングの歌詞に出てくる「キミ」や「あなた」を無意識のうちにその人に置きかえて聞いていた。コンビニのスイーツを見かけたら、甘い物が好きなその人のことが頭の中に浮かんできた。
 その人のことがすごく好きだった。その人のためなら何でもしてあげたいと思った。私が幸せにしたい、たくさんの喜びを、たくさんの愛を、私が与えてあげる、そう思った。
 二週間ぶりにその人に会った。二週間前に別れたそのときから、会いたいと思い続けた。そのせいで二週間が長い時間に感じた。
 居酒屋から出て駅に向かう。とても楽しかった。けれど、胸の中にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。今日もこのまま別れてしまう。私はその人にもっと近づきたい。その身体に触れたい。恋人になりたい。このままだと駅に着いてしまう。そうしたら、私は今日もこの人と付き合えることなく、孤独をかみしめながら電車に乗ることになる。そんなのはもういや。
「ねぇ、抱きしめてくれない」
 恥ずかしさと反応を確認しなければならない恐ろしさとで、私はその人の顔を見られなかった。立っているのがやっとで、その場から一歩も動けなかった。
 このまま消えていなくなってしまいたいと思っていると、横から長い腕がのびてきて、私の身体はその人の腕の中にすっぽりとおさまった。胸が高鳴り、このまま心臓が止まってしまうかもしれないと思った。私はあまりに幸福だった。この瞬間を一生忘れない。そう思っていると、胸のあたりに柔らかいものがぶつかった。そこだけ妙な膨らみがあった。おかしいなと思って身体を少し離すと、目の前に私がいた。いつの間にかその人はいなくなっていて、私は私と抱き合っていた。
 どうしたらいいのか分からなかった。混乱した私は泣きそうになりながら、目の前にいる私をもう一度抱きしめた。強く、強く。私が窒息しそうなほどの力をこめて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?