チューリップ
唇から血が出たら彼と別れよう。
そう思ったのは達也とキスをした後のことだった。
「なんか、ガサガサじゃない?」
達也が人差し指で私の唇にふれる。
ほら、ここ。皮むけてんじゃん。そう言って、その箇所を何度も叩く。荒れて敏感になっている箇所だから、刺激が直接とどいた。
「保湿しなよ。保湿」
そんなこと、言われなくたってしてる。
寝る前には必ず薬用リップクリームを塗っている。朝起きたときだって、家に帰ってメイクを落としたときでも忘れない。それ以外にも気がついたときに塗っているから、一日に何回もリップクリームを塗っていることになる。
それなのに、いくら塗っても、私の唇はあまりにも敏感で、冬の乾燥の前に手も足も出ない。
なにがガサガサだよ。なにが保湿だよ。こっちがどれだけ気にかけているのかも知らないくせに。
達也に対する怒りが湧いてきた。
今日つけてきた赤いリップ。デパートで五千円で購入したもので、色も発色もよかったけれど、これをつけるとわたしの唇は悲鳴をあげた。
これをつけて出掛けた日は家に帰ってすぐ口紅を落とし、薬用リップクリームを塗りたくるのだけれど、しばらくの間はひりつきが続いた。
だから、特別な日にしかつけないようにしていて、今日は達也とのデートだからつけてきてあげたのに。
指でふれると引っ掛かる皮の感触と一緒に粘り気のある液体がついた。達也の唾液だった。
以前に唇が荒れる原因を検索したとき、舐めるのがよくないと出てきたことがある。
唾液が乾いたら、私の唇は潤いを失ってしまう。達也の唾液によって、私の唇は傷つけられるのだ。
傷ついた唇は枯れかかった植物のようで、今さら一生懸命肥料をあげ、水をあげたところで、すでに栄養は届きにくくなっている。それでも試行錯誤を繰り返しているうちに、少しずつ生命力を取り戻していく。
けれどせっかくの努力もすべて無意味になる。侵略者はふたたびやってきて、土は踏み荒らし、その命を奪っていく。
ふと、昔公園で見たある男の子のことを思い出した。その男の子はハサミを持っていた。そのハサミを使って、花壇に植えてあるチューリップの花を切っていくのだ。
目に突き刺さるほど鮮やかな赤色、うららかな春の日を連想させる黄色、鮮やかな色彩の中でひときわ目立つ白色。あたりにハサミの音を響かせながら、天使のような微笑みを浮かべながら、男の子は次から次へと命を奪っていった。
身体を切断されてしまったチューリップはしばらく男の子の手の中にあったのだけれど、飽きてしまったのか、数十秒後には投げ捨てられて、地面に花弁が散乱した。
花弁を踏みつけながら、男の子はブランコに向かって走っていってしまった。
私は花壇に近づくと、真っ赤な花びらを一枚手に取って、指の腹でそっと撫でた。
男の子はこっちのことなんか気にもせず、楽しそうにブランコをこいでいた。
「水分をあげる」
達也が私の唇を舐めた。
このとき私は達也と別れてやろうと思った。
達也が唾液で私の唇を濡らし、私の唇から水分を奪っていくのならば。
私の唇が荒れていくのにもお構いなしに傷つけ続けるのなら。
別れの前に最後にキスをするのもいいかもしれない。達也が私の唇を舐めたら。そのときは達也の舌を思いっきり噛んでやろう。口から真っ赤な血を流す達也に向かって、私は別れの言葉を告げるのだ。
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