恐怖に向き合え!東京スカイツリー単独行
この日は夕方に人と会う約束があり、スマホを置いて出かけることができなかった。
遠方へ出かけることができないので、垂直方向へ遠く、つまり高いところへ、恐怖と向き合うために出かけることにした。
(前回)
東京スカイツリーとの再戦。
東京スカイツリーの天望回廊(てんぼうかいろう)には、1度上がったことがある。
その時は足がすくんで、景色を楽しむことができなかった。
地上450メートルの天望回廊とは言え、屋外の風にさらされているわけではないし、何をそんなに怯える必要があるのだろうか。
それをもう一度確かめるためにも、再び東京スカイツリーに登ることにした。
地上界で荷物をロッカーに預けて、手帳とカメラとチケットを引き換えるために必要なスマホだけを持って、スカイツリーのゲートに向かった。
インターネット予約で、朝一番の10:00の回のチケットを購入していた。
現地には9:30ごろに着いていたが、すでにチケット引き換えの行列ができていた。
チケットを引き換えた私や周りの客は、整列して4台ある大きなエレベーターに乗り込む。
4代のエレベーターはそれぞれ春夏秋冬を象徴し、それに応じた装飾が施されている。
エレベーターの天井は、一部がガラス張りになっていて、スカイツリーの構想部へ登っていく様子が観察できる。
エレベーターが、地上350メートルの天望デッキ(てんぼうでっき)に到着する。
空中へ張り出した大きな窓に近づいてみるが、地上の景色はまるでミニチュアのようで、現実感が無いためか恐怖を覚えなかった。
私はダイタロスになりたかった。
スカイツリーの高層部は大きく分けて天望デッキと天望回廊に別れている。
天望回廊には、天望デッキからさらにエレベーターで上の階へ向かう。
天望回廊は地上450メートルの高さである。
どっしりとした作りだった天望デッキとは違い、スカイツリーに巻きつくような構造になっている展望回廊は、まるで空中を散歩しているような感覚を、提供してくれる。
私は足がすくんできた。
前回、高尾山のリフトを経験したからか、以前に来たときよりは冷静でいられている気がするが、それでも背中から爪先まで、冷や汗が吹き出して、体を流れているのを感じる。
体が冷えてきて、膝から下は、冬山でも歩いているような冷たさになってくる。
空中に迫り出すような構造になっている天望回廊では、自分の立っている場所は、非常に脆弱な足場に思えてくる。
そんなことはあり得ないが、強い風に煽られて、空中に投げ出されるイメージで頭がいっぱいになる。
あるいは、回廊ごと崩壊して、周りの客と一緒に、地面に叩きつけられるイメージが浮かんでくる。
私にとって、この恐怖によるイメージの創起は鮮烈だ。
自分を俯瞰するような視点で、地上450メートルの不安な足場で、立ち竦んでいる自分の姿を見下ろしているイメージが見える。
人間は、頭の中に世界を再現でき、それによって多様なコミュニケーションのための表現能力を獲得しているのだ、という話を聞いたことがあるが、この能力が遺憾なく発揮されている。
私は、いつも落下の恐怖と戦っている。
そのような夢もたくさん見る。
前世は、蝋で固めた鳥の羽で、大空高く飛び立とうとでもしたのだろうか。
かわいさは求めていない。
スカイツリーは、すみっこぐらしとコラボレーションしたイベントの真っ最中だった。
天望デッキから天望回廊まで、そこかしこがすみっこぐらしのキャラクターたちでデコレートされていた。
すみっこぐらしの何某かが、富士山の方向を示してくれていたが、本当にどうでもよかった。足が震えているのだ。
高いところで、死の恐怖に苛まれている私は、感覚が鋭くなっている。
いつもよりも目が冴えて、視界中心部だけでなく、周辺まで鮮明に見える気がする。
周囲の人の声が、やたらとはっきりと聞こえて、はしゃいだり怖がっている子どもたちの声が、耳をつんざく大音量に聞こえる。
私は、腰を抜かすまいと、床に踏ん張って立っているつもりなのに、足裏が床についていない感じがする。
腰の辺りが、ふわふわとして心地悪く、誰かに持ち上げられているような感じがする。
死が、私の体を持ち上げて、地上450メートルの空中に、放り出そうとしているのだ。
私は、平静を装って歩く。
景色を楽しみながら、ゆっくり歩く前の人が進むのを待っているフリをして、できるだけゆっくり恐怖に向かい合う時間を作る。
景色を楽しむ人に混じって、あっちが渋谷だ、あっちが富士山だ、などとキョロキョロしてみる。
その実、景色どころでは無いのだが。
人目を気にする余裕があるのか?
私は、周りの目を気にしている。
怖がりの、臆病者だと思われるのが嫌なのだろうか?
私の体はこわばっているし、手すりを持つ手には力が入っていて、動きもぎこちない。
視線は定まらず、体全体を引きずるように歩いていて、滑稽そのものだ。
誰しも臆病者だと思うのだろう。
隠しても無駄なのだ。
私は、他者から奇異に思われるのも怖いのだろう。
偏屈者だと自覚しながら、なぜ他人の顔色を伺っているのだろう?
根底には生存本能があるだろう。
人類は、集団を形成することで自然を生き抜いてきた。
村八分にされることは、死へ直結する恐るべき事態だ。
だから、人間は仲間意識を持ち、ウワサ話をして集団の共通認識へアクセスしようとし、自分が排斥されることを避けるために、他者の悪いウワサを流布してきたのだろう。
しかし、現代ではそんなことをしなくても、死は避けられる。
他社の目を気にし過ぎると言うのは、不適応な反応だ。
他者から、奇異の目で見られることを恐れて、それを避けているうちに、不適応的な学習を繰り返し強化して、他者の目を不必要に恐れるようになってしまったのだろう。
他者から奇異の目で見られたからと言って、それがどうだと言うのだろう?
きっと、これも私が向き合って克服しなければいけない恐怖なのだろう。
私は、私の周りの人が、私を奇異の目で見ているイメージが見える。
地上450メートルで、足をすくませている私自身を、俯瞰することもできる。
視覚的な認知と想像力と処理能力によって、私は私の表現手段を手に入れ、仕事をこなしてきた。
私は、視覚から得た情報から、私の中に多次元的なイメージを作り上げて、それを出力することができる。
私は、この能力を、恐怖を生み出し、自分自身の行動を制限するためではなく、世界を豊かなものにするために使いたい。
だから、恐怖に向き合わなければいけない、と思っているのだ。
考えた奴はきっとサディスト。
展望回廊を抜けると、くだりのエスカレーターが現れる。
下のフロアへとくだると、ガラス床がある。私はこれにチャレンジしにきたのだ。
ガラス床というのは、想像の通り、スカイツリーの展望デッキの床がガラス張りになっていて、地面が見えるようになっているアトラクションだ。
前回来た時は当然、この上に乗ることができなかった。
それどころか、このガラス床に近づくことすらできなかった。
今日の目標は、このガラス床に乗って、足元を見ることだ。
私はガラス床の前で立ち止まって足踏みしていた。
とてもではないが、この上に足を踏み出すなんてできそうにない。
周りにいる人も、半分ぐらいは床を覗き込むのが精一杯で、平気でガラスの上を歩いているのは、小さな子供か、その子を連れた親か(親というのは強い生き物だ。)、はしゃいでいる高いところが好きであろう人だけだった。
逃げ出したい。
私はこのことをブログに書かずに、この場を立ち去って無かったことにできる。
私の知っている人は、誰も今の私を見ていない。
逃げていいじゃないか。
私は同じことをずっと頭の中で反芻し、ガラス床に近づいては離れ、近づいては離れして、長い時間躊躇していた。
しかし、今日はこの上に乗ると決めてきたのだ。自分を裏切ってはいけない。
私はスマホを取り出し、Facebookのアプリを起動して、ライブ配信を開始した。
他者の目が気になるなら、他者の目に晒されればいいのだ。
Facebookの友達には、私のブログを楽しみに読んでくれている人がいる。
私が高いところが怖いことも、それを克服しようとしていることも知ってくれている人がいる。
その目に晒されれば、ガラス床に足を踏み出す動機になるかもしれない。
私はFacebookライブを開始して、スマホに表示される配信のプレビュー画面に集中した。
スマホ越しの風景は、現実感が損なわれて、フィクションのように思える。
私はまるでゲームの画面の中で空中に踏み出すように、ガラス床に踏み出した。
視界の周囲に入り込んでくる現実の景色は、なるべく見ないようにして。
私はガラス床の上を歩く。
Facebookライブは誰も見ていない。だがそんなことはもはや問題ではない。
周りの人々を避けたり、押し出されるようにして、ガラスの上をふらふらと動きながら、これまで感じたことのないような恐怖と戦慄を感じていた。
スマホ越しということもあるが、まるで現実味が無い。
それは、最初に展望デッキで感じたような非現実性ではなく、あまりの恐怖のために体の感覚がまるで変わってしまって、生きた心地がしないという類のものだった。
好奇心に駆られた周りの人々が、次々ガラス床の上へ歩き出す。
私は押し出されるような形で、ガラス床の外に出た。
そしてFacebookライブの配信を停止した。
私は5分ぐらいガラス床の上で頑張っていたかもしれないと思ったが、配信をプレイバックしてみたら、ちゃんとガラス床の上に乗っていたのは15秒程度だった。
それでも頑張ったと思う。私は今までの人生で、この手のガラス床の上に乗れた試しがなかった。
私はさらに挑戦することにした。
今度は自分のカメラを覗きながら、ガラス床の上に乗ってみることにした。
今度はライブ配信ではない。誰も見てくれてはいない。
カメラの背面モニターに集中して、ガラス床の上に足を踏み入れる。
肉眼では足元を見ることができなかったが、ガラス床の上に乗ること自体は先ほどできたのだから、きっとできる。
カメラ越しでもガラス床の上に乗ることができた。
先ほどより更に短い時間だ。
それでも、自分の力だけでガラス床の上に乗ることができた。
これなら、カメラに頼らず、ガラス床の上に乗って、肉眼で足元を見ることができるかもしれない。
私はなるべく迷わないように、カメラを下ろしてすぐに再びガラス床の上に乗った。
ほんの数歩。本の1秒か2秒だけだったと思うが、私はガラス床の上に乗り、足元を見た。
もはや恐ろしいのか何なのかわからなかった。
足元の何百メートルも先の地面から、脳天を突き抜けるような、強烈な衝撃的な感覚が体を貫いているように感じた。
生まれて初めての経験だった。
最後に関しては画像的資料が何も残っていないので証明する手立てはないのだが、私の中には経験が作られた。
これで何かが劇的に良くなるということがあるわけではないだろう。
しかし、できないと思い込んでいたことができたということは重要な経験だ。
私は浮ついた気持ちでくだりのエレベーターに乗って、地上に降りた。
私はもっとたくさんの経験を増やして、自分のキャパシティを拡張していける。
そのように考えながら、この後会う人との待ち合わせの場所を目指して出かけていった。
おわり
Reference
参考資料等です。
東京スカイツリー
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Photos
その他の写真です。
Taken by Leica SL2-S, Leica Elmarit M28mm f2.8 and iPhone X
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2022年9月18日
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