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同情と同調と憐憫

 昨日、姉と犯人の件で、お話をしました。
姉は、某映画監督のマネージャーと知り合いでして、よく某映画監督の知見を私に話します。
某映画監督は、私のことを『門真の人』と呼んでいるそうなのですが、門真市の在住歴は13歳から36歳までの24年間となります。
大東市は、4歳から12歳の9年間と37歳から現在までの16年間なので、大東市在住歴が最長となり、25年間となります。
東大阪市の御厨栄町で生まれ、その後大阪市鶴見区で育ちました。
大東市に引っ越ししてからは門真と大東の端境周辺に居を構えていますので、ほぼ5km圏内で居住してきたことになります。
ということで、いまや『大東の人』なんですけれどもね。
まあ、細かいことなので、そのまま『門真の人』と呼ばれている状態です。

さて、本題に戻しますね。

姉 「監督は、犯人が可哀想だ。同情するって言ってたよ。」
私 「そうか・・・まあ、色々な感じ方があるし、俺も犯人の身の上は可哀想と思わなくもないよ。」
姉 「同情するよね。」
私 「いや。同情まではしないかな。」
姉 「なんでなん? 」
私 「可哀想とは思うけれど、自分事としては受け止められん。」
姉 「あんたなあ・・・裕福な家庭で生まれ育ったから他人の苦労が分からんのちゃうん? 」
私 「・・・(そういう姉も同じ家庭で育って来てるんだが・・・) 憐憫と同情は違うからなあ・・・」
姉 「また、難しいこと言うて。理屈やないんよ。人の心は。」
私 「それは分かってる。(というか、その物言い自体が人の心を理解していないんやけど・・・)」

ということで、それ以上の話をやめにしました。

姉は、会社の事務員をやっている関係上、四六時中顔を突き合わす格好になること。
社長と事務員という関係でありながら、姉と弟という関係でマウントを取ってくるので、衝突することもままあります。
(基本、会社の経営に関する件で、変な指図をしてきた場合には喧嘩してでも退けているという感じです。まあ、たまにそれ以外で喧嘩になる時もありますが・・・)

さて、姉には理解してもらえないだろうなと思い、説明しませんでしたが

憐憫れんびんとは、「可哀想に思う事」です。
でも、他人事として感じているという意味が含まれています。
同情は、「可哀想に思う事」ですが、
自分ごとのように受け止め、【感情を共にすること】になります。

憐憫と同情の違いについて

私は、犯人に対して憐憫の情は抱くが、同情の念はない。

こう表現したわけですね。

【同情】が「感情を共にすること」を含んでいるという説明をすると、【同調】にまで発展して受け止める人が一定割合で出てしまいます。

【同調】は、賛成に回り、同じ行動様式・意見・態度になることを言います。
つまり、具体的に態度や言動に現れ始めるところまで進むのを同調というんですね。

仮に、犯人に【同調】するとすれば・・・
第二第三の犯行として宗教団体の幹部を狙うことになるでしょう。

仮に、犯人に【同情】するとすれば・・・
宗教団体を憎むところまで感情が動いているということになります。

私の場合、【憐憫】ですので、
犯人の身の上、境遇は可哀想だと思うけれども、だからといって宗教団体まで恨んだり憎んだりしているわけではないということになります。

語句の選び方、表現の仕方は、その人の語彙力によっても決まります。
姉には憐憫と同情の区別がつかず、なんか難しいこと言ってる、という風にしか受け止めてもらえなかったのだろうと思います。
件の映画監督にしても、同情という言葉しか知らなかった可能性もあります。
だから、同情という言葉を使ったところで、実際に宗教団体まで憎んでいるとは考えていません(言葉の発し方や話の前後を総合的に勘案した解釈)が・・・

仮に文章であったら・・・誤解を招くことも出てくるのかもしれません。

語彙力を高めないと相手の言葉の真意が汲み取れなくなる。

同じ家庭環境で育った姉弟ではありますが、語彙力の差から来るすれ違いには手を焼いております。(苦笑)

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。