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チブサン古墳 〜 装飾古墳の魅力に迫る

これまで、宮内庁が管理する天皇・皇族ゆかりのお墓である御陵(みささぎ)について、いくつか紹介してきましたが、

今回は、豪族のお墓、特に古墳時代に作られた装飾古墳(そうしょくこふん)について、ご紹介したいと思います。
 
古墳時代とは
古来、人々は近親者が亡くなると、時に死者に装飾を施し、時に副葬品として道具や農作物などを埋葬するなど、それぞれの死生観に基づく儀式を行い、その亡骸を棺や墓に入れて弔ってきました。

3世紀から7世紀にかけて、日本各地に大きなお墓が作られた時期がありました。この時に作られたお墓を古墳といい、日本史ではこの時期を古墳時代と呼んでいます。

当時の豪族は、大きなお墓を作ることによって死後の旅立ちに備え、自らの権力を誇示したと考えられています。

その形や大きさ、埋葬形態から、この時代の古墳はヤマト王権とつながりがあるとされ、特に、前方後円墳 (注1) は、ヤマト王権から認められた首長のみに築造を許されたと考えられています。

(注1) 前方後円墳は、日本国内のみならず、朝鮮半島でも発見されている

装飾古墳とは
3世紀から、古墳は本州中部で出現していたのですが、4世紀半ばからは、石棺や石室の内外に、具象的な図柄(注2) や抽象的な図柄(注3) など、様々な図文が彫刻や顔料で装飾された古墳が、九州を中心に出現しました。

装飾古墳のレプリカ《熊本県立装飾古墳館》
(Photo by ISSA)

(注2) 人、動物、道具、武具、船、星座等
(注3) 円、弧、鍵手、連続三角、菱形、双脚輪状などの幾何学模様

装飾古墳の変遷
装飾古墳の出現から衰退に至る変遷は、概ね次のとおりです。

装飾古墳の変遷
(Created by ISSA)

熊本県に集中
日本には、コンビニの店舗数よりも多い16万基もの古墳がありますが、その中の723基は装飾古墳であり、うち203基が熊本県に集中しています。

熊本県立装飾古墳館

熊本県、特に県北の菊池川流域に装飾古墳が多い理由は、装飾に用いる赤色の顔料ガンベラ(注4) の材料となる阿蘇黄土(リモナイト)が入手し易かったからではないかといわれています。

歴史倶楽部

(注4) この顔料は、現代でも鳥居を塗るために使われている

熊本周辺で独自に発展した装飾古墳は、その後、東日本にも広がりましたが、近畿地方では受け容れられなかったようです。

その理由は、当時、近畿では「死者を隠す」ことが習わしであったところ、装節された古墳は、逆に「死者を見せる」ことにつながると考えられたからです。

チブサン古墳について
熊本県で有名なのは、山鹿市(やまがし)にあるチブサン古墳です。

日本を代表する装飾古墳のひとつで、6世紀前半に築造されたものです。

チブサン古墳周辺図
(Photo  by ISSA)

石屋形と呼ばれる埋葬施設の奥壁には、赤・黒・白の彩色で描かれた二つの図文と、その周囲に連続的に配置された三角形の装飾が描かれています。

チブサン古墳の石屋のレプリカ
(Photo  by ISSA)

ちなみに「チブサン」という名前は、赤・黒・白で描かれた二つの円形が女性の乳房のように見えることに由来しており、古来から「乳房さん(チブサン)」と呼ばれ、江戸時代以降は「お乳の神様」として信仰されていたそうです。

この図を描いた古代人は、よもや後世で「お乳の神様」と呼ばれるとは思ってもみなかったでしょうが…。

お乳の神様? チブサンの壁画
(Photo by ISSA)

私には当初、「人の目玉」のように見えましたが、人によって受け止め方が様々なのは、抽象画の魅力なのかもしれませんね。

チブサン古墳は、全長約45m、高さ7mの前方後円墳です。

チブサン古墳
(Photo  by ISSA)

墳丘からは葺石・埴輪のほか、武装した石人1体が見つかっています。

チブサン古墳からの出土品
(Photo  by ISSA)

前方後円墳という形状からも、葬られた方はヤマト王権から認められた首長だったのかもしれません。

なお、熊本県立装飾古墳館は、唯一の装飾古墳専門の博物館です。

熊本県立装飾古墳館の展示品
(Photo  by ISSA)
熊本県立装飾古墳館の展示品
(Photo  by ISSA)

週2回、チブサン古墳の内部を見学することができます。当日、山鹿市博物館で申請手続きが必要です。

山鹿市博物館
(Photo  by ISSA)

装飾古墳について、もっと詳しく知りたい方はコチラから👇


まとめ~装飾古墳の魅力

【1】日本国内で異なる死生観が存在
日本国内で、装飾古墳の分布が極端に偏っているのは大変興味深いと思いました。特に、日本の創世記においては、日本国内で異なる死生観が存在していたようです。
 
イザナギとイザナミをルーツとするヤマト王権には、イザナギが黄泉国にイザナミを迎えに行き、「穢れ(けがれ)」を払うために「禊ぎ(みそぎ)」を行ったとする穢れの思想があったと考えられます。

「黄泉比良坂」の図

その思想が定着していた地域、つまり、ヤマト王権の思想的影響が大きかった地域や、その中心地であった近畿では、熊本で新たに発祥した「死者を葬るお墓を綺羅びやかに装節し、人目を引く」という考え方は、受け容れられなかったのだろうと思います。

【2】優れた美的感覚
彼らは、どのような想いで装飾を施してきたのでしょう。

権威の象徴だったのか、死者を別世界へと導く手解きだったのか、安らかな眠りを誘うためだったのか、離別の悲しみを表したかったのか。

今となっては想像の域を超えませんが、いずれにせよ、現代人でさえも惹かれてしまうような優れたデザイナーであり、アーティストであったということは間違いなさそうです。

古墳に装飾された様々な図文

【3】個性豊かな日本人の姿
そして、日本人固有の多様性や繊細な感覚は、既にこの頃から育まれていたということです。

お墓にアート感覚で装飾を施すという発想自体、既成概念に捕われない多様性の証だと思うのです。

そのような柔軟な発想ができる人々が、我が故郷・熊本から出現していたことは大変驚きであり、この歳になって、故郷の魅力を再発見することが出来て嬉しく思います。

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チブサン古墳の近くには、ワカタケル大王(雄略天皇)の名が刻まれた剣が発見された江田船山古墳があります。

同じくワカタケル大王の名が刻まれた剣が、熊本から遠く離れた埼玉県の稲荷山古墳からも出土しています。

この話は、また、次の機会に。