伊能忠敬と、この国のカタチ
日本人が「国家」を意識するようになったきっかけは、長い歴史の中で、何度もありました。例えば、日本を初めて統一したヤマト王権の誕生、鎌倉時代の元寇、江戸時代末期の黒船来航など。
日本民族の「国家」への帰属意識は、そうした中央集権の強化や外敵の来襲によって強まってきた訳ですが、では、日本人はいつ「日本という国の姿カタチ」を知ったのでしょうか。
今回は、その方面で大きな役割を果たした偉人・伊能忠敬(いのうただたか)についてご紹介致します。
日本地図の歴史
日本という国の姿カタチは、鎌倉時代には朧気ながらにイメージされていたようです。
その後、大航海時代の幕開けとともに、日本近海に訪れた外国人の手によって17~18世紀にかけて、少しずつ日本のカタチになってきて、19世紀には北海道も描かれるようになりました。
しかし、鎖国が続いた江戸時代には、未だ絵図のようなものでしかありませんでした。
そこへ、伊能忠敬という偉人が現れ、詳細な地図を描いたことで、日本という国の姿カタチが明確にされたのです。
伊能忠敬は、どんな人物?
簡単に言えば、江戸時代の中期、人工衛星も、飛行機も、車も、スニーカーも、コピー機もない時代に、初めて日本の全国地図を作った人物です。
17年の歳月をかけて、草鞋で歩いた距離は、なんと地球一周に相当する4万キロ。
Google Mapで「伊能忠敬」と検索すると、全国各地に記念碑があることが分かります。
おいたち ~ 伊能家への婿入り
1745年、忠敬は上総国・小関村(九十九里浜辺り)で、名主を務める小関家の次男として生まれました。
忠敬は、教養人だった父から学問の基礎を教わり、更に僧侶や医師のもとで算術や医学を学びました。幼少期からソロバンが得意で、大人からも一目置かれていました。
17歳のとき、下総国・佐原(千葉県香取市)で酒造業などを営む伊能家に婿養子として迎えられ、傾きかけていた伊能家の商売を立て直したそうです。
浅間山噴火(1783年)の際には、利根川の堤防改修に尽力し、天明の大飢饉(1788年)では、米やお金を困窮者に提供しました。
この時、忠敬の働きで村から1人の餓死者も出さなかった功績が認められ、商人でありながら刀を持つ苗字帯刀が許されたそうです。
これだけでも凄いことですが、伊能忠敬の本当に凄い人生は、ここから始まります。
19歳年下の師に学ぶ
婿入りから30余年の歳月が流れ、忠孝は50歳を迎えます。当時なら、すっかり隠居暮らしになる年齢ですが、忠敬は第2の人生は好きな学問に励もうと決意します。
1795年、忠敬は江戸の深川(東京都江東区)に移り、以前から興味があった暦学 (注1) の研究を始めました。
(注1) 星空がきれいに見えた九十九里浜で生まれ育った忠敬は、幼少期から天文学への関心が深かったという
この頃、江戸幕府の天文方に就任したのが、天文学者・暦学者の高橋至時でした(至時は、既に地動説を理解していた)。
年功序列が厳格な時代にも関わらず、忠敬は19歳も年下の高橋至時に弟子入り(注2) し、謙虚に天文学や測量術を学びました。
(注2) 忠敬の合理的な考え方は、伊能家の家訓からもうかがわれる
子午線1度の長さを求めて
当時、天文学者の関心を集めていたのは、子午線1度の正確な距離でした。
子午線は、地球の北極と南極を結ぶ経線のことで、子午線1度の距離を360倍すれば、地球の円周の長さが分かります。
忠敬は、そもそも地図を作りたかった訳ではなく、地球の正確な大きさを知りたかっただけだったのです。
しかし、当時は様々な「お国」が軒を連ね、士農工商という身分に縛られるご時世。子午線を測るには、幕府や諸藩が設置した関所の存在が、地理的にも身分的にも大きな障害となっていました。
台頭するロシアの脅威
ちょうどその頃、不凍港を探していたロシアが日本に目を付け、1792年にラクスマンを長とする使節団を根室に派遣し、幕府に通商を求めてきました。
この時、老中・松平定信は信書を受理せず、長崎への回航を指示したのですが、ロシアの脅威を感じた幕府は、海岸線の防護が急務と考え、正確な蝦夷地の地図を作る必要性に迫られます。
蝦夷地の地図を求める幕府と、「御用」(=公務)という名の免罪符を得て自由に子午線の長さを測りたい忠敬。高橋至時が、両者を取り持つことで伊能忠敬による蝦夷地測量が実現することになったのです。
この時は未だ「費用の大半は自腹」という厳しい条件でしたが、地球の大きさを知りたいという強い探求心から、忠敬はこの測量を快諾したそうです。
蝦夷地測量が始まる
1800年、忠敬一行は蝦夷地に向け出発。自らの足で日本を測る旅が始まります。御年56歳のことでした。
どんな測量を行ったのか
当時の測量の基本は歩測で、忠敬はいつも歩幅が 69cm になるように努めていましたが、精度を高めるために同じ所を2回以上測りました。
他にも距離を測る間縄や量程車、方位や角度を測る方位盤や象限儀など、当時の先端機器を活用しています。
忠敬の一行は、これらを駆使して地形や距離を測量し、斜面があるときは、三角関数で水平距離を求めました。
昼間は10里(約40km)を歩き、夜は集めたデータから手作業により点と点を繫いで海岸線を作図。また、天測による誤差の検証や修正も行いました。
約半年後、忠敬は蝦夷地測量を終えて(注3) 江戸に戻ります。地図の出来栄えに幕府の役人は感心し、その後は、正式に幕府の費用で賄われる日本全国の測量が命じられたのです。
(注3) 実際には、この測量は厳冬期を前に中断を余儀なくされ、後に忠敬の弟子となった間宮林蔵が、蝦夷地の残り部分の測量を引き継いだ
【参考】 間宮林蔵について
江戸後期の探検家で幕府の役人。忠敬から測量を教わり、蝦夷地図を完成させた。その後、ドイツの医者・博物学者であるシーボルトにより樺太・大陸間の最狭部が「マミアノセト」(海峡自体は「タタール海峡」)と名付けられ、樺太(サハリン)が島であることを確認した人物と認められた
日本全国測量の旅へ
このあと、毎年のように全国を歩いて周り、後半生を測量に費やしました。
極めて正確だった子午線1度の距離
忠敬は、1801年の第2次測量で、既に子午線1度の距離を28.2里と推定しています。
これを360倍すると地球の円周は39,867km。実際の地球の円周は40,000km(子午線1度=28.29里)ですから、忠敬が測量した数値が如何に正確だったかが分かります。
志の変化
かくして忠敬の志は、当初の「子午線1度の距離を測ること」から、次第に「日本全国地図を作ること」へと変わっていったのです。
苦労が絶えなかった測量行
しかし、測量行は常に順風満帆という訳ではありませんでした。
関所では、幕府の添え触れがあっても難癖をつけられることもしばしばで、関所を通過した後も、「他藩の者が怪しいことをしている、隠密ではないか」と疑われ、妨害工作にあうこともありました。
そのため、忠敬は「御用」というステータスを最大限に利用しましたが、それは同時に、便宜、資金、身分の面で支援を渋る幕府の官僚主義との闘いでもあったのです。
また、一行の連帯も常に盤石であった訳ではなく、内輪もめや人間関係の苦労も絶えなかったようです。
完成前に倒れる
晩年は持病の喘息が悪化し、1818年、忠孝は自宅で73歳の生涯を閉じました。その亡骸は、忠敬の遺言どおり、1804年に亡くなった高橋至時の墓の近くに葬られました。
幕府を謀った3年間
しかし、その死は地図が完成する1821年まで内密にされました。幕府に忠敬の死が知られたら、測量支援を打ち切られるという懸念があったからです。
ただ、幕府を謀って莫大な経費を拠出させる訳ですから、万一そのことが露顕すれば死罪も免れ得ないものでした。彼らにとり、日本の全国地図を作り上げるということは、まさに命がけの闘いだったのです。
大日本沿海輿地全図
日本初の実測地図・大日本沿海輿地全図は、1821年、高橋至時の息子で忠敬とも親交があった高橋景保(注4) らによって完成します。
(注4) 1804年、父・高橋至時の後を継いで幕府の天文方となり、天体観測・測量及び天文関連書籍の翻訳などに従事しつつ、忠敬らの測量行を全面的に援助した
この地図は、現在の地図と殆ど変わらない正確さを有するばかりでなく、見て楽しめる地図になるように、随所に彩色が施されています。
大図214枚、中図8枚、小図3枚からなり、伊能忠敬の測量集「大日本沿海実測録」14冊とともに幕府に上納されました。
映画「大河への道」では、忠敬の死後、全国地図が完成してから高橋景保が11代将軍・徳川家斉の上閲を受けた(注5) という設定で、次のようなやり取りを描いています。
(注5) 史実では、先の年表のとおり、日本の東半分が完成した時点で徳川家斉の上閲を受けている(ただ、家斉は1837年まで将軍職に在任していたので、完成版の上閲も受けたと考えられる)
笑いあり、涙ありの素晴らしい映画です。未だ観てない方は、是非一度、ご覧ください。
秘蔵扱いとされた伊能図
幕府に上納された伊能図は、詳細だった故に、外国に渡れば警備上の問題になるとして幕府が流布を禁じ、江戸城の文庫に秘蔵され、一般の目に触れることはありませんでした。
1828年、この文庫を所管する高橋景保は、外国の科学書や地図を譲り受ける見返りとして、シーボルトに伊能図を贈ったことが露顕して投獄され、翌1829年に獄死しました。
その後、地図は軍事上の機密に
1855年になると、幕府の海軍伝習所で伊能図が使われるなど、一時的に地図の実用化への動きが見られましたが、1899年には、明治政府が地図を軍事機密に指定するなど、公になるまでには更に時間を要しました。
まとめ ~ 伊能忠敬のここが凄い
① 50歳から出直ししたこと
人生50年といわれる時代に、忠敬が全国測量の旅に出発したのは、なんと56歳のとき。老後の人生を賭けて成し遂げた偉業と言えます。
そして忠敬をこの大仕事に駆り立てた原点は、「地球の大きさを知りたい」という純粋な思いでした。
「学歴」という過去の遺物に胡座をかくのではなく、いくつになっても謙虚に学び真摯に取り組むことの大切さがうかがわれます。
② 目的は、世のため人のため
2度目の測量で、既に子午線1度の距離は判明していたにも関わらず、何故、身を粉にし、私財を費やしてまで測量に心血を注ぎ続けたのか。
それは、学者としての探究心のみならず、ロシアの動向(注6) からも、詳細な地図が、異国から日本を守ることを誰よりも良く理解していたからに他なりません。
(注6) 東半分の地図作成を終えた1804年、長崎に訪れたレザノフが再び通商を要求したが幕府は拒否。その報復で1806年、ロシア船が樺太・択捉を攻撃。これを機に幕府は松前・蝦夷地を直轄化した(ロシアの「侵略癖」は昔から変わらない・・・)
「考え方」の原点が「利他」であることの重要性がうかがわれます。
③ 地球という概念への理解と達観
星空が綺麗な九十九里浜で育った忠敬は、恐らく幼少期から星々と対話して来たのでしょう。
彼の心の中には「天上の星の運行に比べたら、人間の世界で起きることなど大したことはない」という達観があったようです。
江戸後期に「地球」という概念、つまり球体(注7) であり、宇宙の法則に従って動いていて、かけがえのない存在であることを理解し、具体的にイメージ出来た、稀有の存在だったのです。
(注7) 平面だと誤差を生じるので、球体であるとの前提に立ち、北極点との位置関係を明確にすることで、はじめて正確な地図を作ることができる
おわりに 〜 この国のカタチとは
最後に、「この国の姿カタチ」について、二つばかり問題提起して、本稿を締めくくりたいと思います。
一つ目は、文字どおり「この国のカタチ」を隅々まで把握できていますか? ということです。
北方領土、竹島、尖閣諸島など、日本の縁辺部は周辺国から脅かされていますが、その原因の一端は、実は私たち自身が作り出しています。
周囲を海に囲まれた日本では、内陸国に比べて「国境」というものをイメージするのが難しいが故に、「国境は島嶼部にある」という認識が低くなりがちになる。
そこに付け込まれている訳です。
二つ目は、「この国の、あるべき姿」という観点です。
一歩一歩、着実に、世のため人のためになることを地道に積み上げる。たとえ何歳になろうとも、謙虚さと情熱を失わず、イチから学び直す気持ちを保ち続ける。
かつて、このような逞しい真心を持つ国民が、そこかしこに居た。その原点に立ち返ることが、日本という稀有なる「この国の、あるべき姿」ではないでしょうか。
映画のナレーションをそのまま引用しますが、まさに、
なのでしょう。
この偉業は
人生50年の時代に成し遂げられたもの
今は人生100年の時代です
世のため人のためになることに
情熱を注ぐことが出来るなら
それは本当に
幸せな事かもしれませんね
先ずは、その「一歩」を
踏み出してみようでは
ありませんか🍀