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廉直高潔の士・杉原千畝

もし「あなたが尊敬する偉人は?」と聞かれたらと誰の名を挙げますか。ある人は幕末の志士、またある人は著名な起業家や芸術家、或いはスポーツ選手の名を挙げるかもしれませんが、私なら迷わず「杉原千畝」とそう答えます。
 
外務省出向時の研修で、日本の近代史についてあらためて色々と調べていたところ「外交官にもこんなヒーローがいたんだ」と衝撃を受けたのが私の杉原千畝との出会いでした。
 
その後、在外公館に赴任して杉原千畝と同じ領事の職を拝命し、ビザ発給の実務に携わったことで、更に理解や共感が深まったように思います。
 
1 ビザについて
そもそも、ビザ(以下、所々「査証」と表記)とは一体何なのでしょうか。はじめに、そのことからおさらいしたいと思います。
 
(1) 査証の意義
先日、日本はビザなし渡航が可能な国・地域が191で世界第1で、日本のパスポートは最強という報道がありました。
 
言い換えると、日本のパスポート所持者(=日本人)に対するクレディビリティ(信頼性)は世界最高位であり、日本人の来訪は自国経済・文化・技術などの発展に好ましく、また滞在中に問題を起こす可能性も低いので査証を免除できると判断した国・地域が191もあるということです。
 
【参考】逆に、日本にビザなし渡航ができる国・地域は「68」(査証関係では相互主義という考え方はなじまない)
 
では、国際社会は何故、査証というシステムを必要としているのでしょうか。
 
昔、国家間の人の往来が少なかった頃は、国境の出入りは比較的に自由でした。交易路の発達に伴い国境などに関所が設けられ、更に輸送手段の発達で人の往来が増えると、次第に国境の関所だけでは対応が難しくなってきます。
 
そこで、出発前に現地で身元確認を行わせることで「問題ある人物を、前もってふるいにかけるしくみ」を作ったのです。

【参考】査証は渡航先での入国を保証するものではなく、いわば入国ゲートまでの推薦状(Endorsement)であり、ましてや滞在の根拠でもない。
 
近代以降、その仕事を在外公館(大使館や領事館の総称)が担っています。日本の場合、入国管理制度との整合を図る必要から入国管理局を擁する法務省が査証の制度を作り、その制度に基づいて外務省・在外公館が査証の実務を行います。
 
現在の査証はコンピュータで管理され、機械印刷されたシールを査証欄に貼付することで交付します。万一、印刷機が故障した場合も、代替手段として定型化された査証スタンプを使用できます。
 
(2) 査証官の責務
日本の在外公館には、日本に渡航しようとする多くの外国人が査証申請に訪れます。諸外国、特に発展途上国からみれば日本は自由で裕福な国と映るので、申請人の中には、少なからず邪な目的や動機で渡航しようとする者が紛れています。
 
具体的には、日本国民の安全を脅かす窃盗、誘拐、人身取引、武器・麻薬密売への関与や、日本国民の雇用環境にも悪影響を及ぼし兼ねない不法就労が目的だったりと、いろんなことが考えられます。
 
また、万一、日本で爆弾テロでも起こしたらどうなるでしょうか。査証官は一体どんな審査をしたのかと問われることになるでしょう。
 
したがって、査証官は審査に際し自ずと「日本国民の安全や利益の確保」を意識するようになり、次第に「性悪説」に基づいて人をみる習慣が身についていきます。
 
3 杉原千畝について
このことを踏まえ、杉原千畝についてユダヤ人迫害と査証を中心にお話していきます(優れた諜報員としての側面は、また別の機会に)。
 
(1) 生い立ち~ハルビン時代
杉原千畝は1900年1月1日、岐阜県南部の山間で生まれ、幼少期は税務署で働く父親の仕事の関係で岐阜、福井、三重、愛知を転々としました。
 
父は医者にならせたかったようですが千畝はこれを拒み、英語教師になるために早稲田大学に入学します。
 
ある日、官報で外務省留学生の存在を知り、猛勉強の末に合格します。そして1919年11月、早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンでロシア語を学びます。
 
1920年11月から約1年半の陸軍勤務を経て、1924年に外務省書記生として採用されハルビン総領事館に任じます。26歳の若さにして外務省から高く評価され、ロシア問題の中心的存在として頭角をあらわしました。
 
(2) 満州国外交部への出向
1932年に満洲国が建国されると、満洲国外交部に出向し、翌1933年にはソ連との北満洲鉄道譲渡交渉を担当します(この交渉で日本に有利な協定締結に貢献)。
 
しかし、驕慢な軍人が横行する満洲国への仕えに嫌気がさし、1935年には満洲国外交部を退官します(1924年からロシア人女性クラウディアと結婚していたが、この年に離婚)。
 
(3) ソ連によるペルソナ・ノン・グラータ
1935年7月から霞が関の外務省で勤務することになります。当初は念願のモスクワに赴任予定でしたが、ソ連が反革命的な白系ロシア人(前妻クラウディア)との親交を理由にペルソナ・ノン・グラータを発動して入国を拒否します(実のところは北満洲鉄道譲渡交渉への報復といわれている)。
 
しかし、日本としては対ソ諜報を重視していたこともあり、1937年9月、対ソ情報を集め易いリトアニアでの領事館設立準備を兼ねて、再婚したばかりの幸子夫人を伴ってフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任します。
 
(4) 水晶の夜(クリスタル・ナハト)事件
そもそも、欧州には歴史的にユダヤ人排斥の下地があったのですが、1938年11月にパリのドイツ大使館員がユダヤの少年に殺されたことを機に起こった反ユダヤ主義暴動水晶の夜(クリスタル・ナハト)事件が、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害行動への転機となります。
 
以後、ユダヤ人たちはナチス・ドイツによる迫害から逃れるためオーストリア(1938年3月、ドイツが併合)やチェコスロバキア(1939年3月、ドイツが解体)からポーランドやバルト3国へと逃れていきます。
 
(5) そして、リトアニアへ
そのような中、杉原千畝は1939年8月28日に在カウナス日本領事館領事代理としてリトアニアに赴任します(その僅か5日前の8月23日、天敵といわれたヒトラーとスターリンが手を組んで独ソ不可侵条約を締結)。

在カウナス日本領事館跡、現・杉原記念館(Photo by ISSA) 

9月にはドイツがポーランド西部に侵攻し第二次世界大戦が始まります。またソ連も独ソ不可侵条約に基づきポーランド東部へと進軍します。ポーランドにいたユダヤ難民は更に行き場を失いリトアニアに流入していきます。

WWⅡ前後の欧州勢力図(Created by ISSA) 

そのリトアニア政府も10月、ソ連による部隊駐留を求める圧力に屈してしまいます(実際にソ連が16万の兵をリトアニアに進駐させたのは、翌1940年6月のこと)。
 
ユダヤ人たちは、独ソ不可侵条約は名ばかりで、ナチス・ドイツはいずれリトアニアにも侵攻してくると考えていました。
 
また、仮にナチス・ドイツがリトアニアに侵攻しなくても、ソ連軍による迫害やシベリア送りが待っていました(スターリンもまた反ユダヤ主義で、1934〜38年の間、大勢のユダヤ人指導者を処分している)。
 
こうして、中立地帯と思われたリトアニアもユダヤ人にとり安住の地ではなくなり、次第に追いつめられていったのです。
 
そして、1940年6月のソ連軍のリトアニア進駐を機に、ユダヤ人の脱リトアニアに向けた動きが活発化します。極東から、北南米や豪州へ逃れようと考えたのです。
 
ところが、各国の領事館は次々に閉鎖されます。彼らに残された道は日本に向かう(を通過する)ことでした。そして、1940年7月18日、ついに行き場を失ったユダヤ人たちはビザを求めてに在カウナス日本領事館に集まったのです。
  
(6) 命のビザ、発給へ
杉原千畝は、当初ユダヤ人の代表者5人を館内に招いて事情を聴きます。問題は、①ソ連がユダヤ人の国内移動を許すか、②日本外務省がユダヤ人へのビザ発給を許すか、の2点でした。
 
①については、すぐにソ連領事館から「国内移動は問題なし」との回答をとりつけます。②については、規則どおり「最終目的地の査証がなければ発給してはならない」との回答でした。
 
これについて杉原千畝は何度も食い下がり窮状を訴えたのですが、日本外務省の方針が変わることはありませんでした。
 
しかし、杉原千畝は友人でもあったオランダ領事ヤン・ツバルテンディクが、ユダヤ難民を窮状から救う方便として、ユダヤ人にカリブ海のオランダ領キュラソー島を最終目的地としたビザを発給していることを知ります。
 
キュラソーは本来、ビザなし渡航が可能な地域だったのですが、オランダ領事が署名したビザのように見せることで、日本の通過ビザ発給要件を満たす根拠として利用できると考えた訳です。
 
そして7月26日、杉原千畝はついに独断でビザを発給することを決意します。しかし、8月3日、ソ連が正式にリトアニアを併合すると、日本領事館も閉鎖を促されます。
 
一人でも多くの命を救うため、少しの時間も惜しんで、多いときは1日200件ものビザを書き(注:途中から、スタンプを使うことで発給作業の効率化を図った)、8月28日の領事館閉鎖後もホテルでビザを書き続けました。

ホテル・メトロポリタン(Photo by ISSA)

いよいよ出国という9月5日、駅まで押し寄せてきたユダヤ人に発車間際までビザを書き続け、最後のビザは車窓から手渡したのでした(千畝が約40日間で書き続けたビザは2,139件、つまり1家族を3人とすれば救った命は6,000人相当)。

カウナス駅(Photo by ISSA)

(7) そして善意は受け継がれた
極東のウラジオストクでは、ハルビン学院での2年後輩にあたる根井三郎らの尽力により乗船できるようになったユダヤ人たちが、日本海汽船が運航する天草丸で敦賀に渡り、続々と日本に上陸しました(同船は1940年後半〜1941年春の間、20数回を運航、一説では1万5千人のユダヤ人を輸送)。
 
日本国内でも、多くの善意ある日本人の働きにより、ユダヤ人は日本郵船の外航船で神戸や横浜から北南米、豪州、上海など各地に旅立って行ったのです(1941年12月の真珠湾攻撃までに殆どのユダヤ難民が日本を出国、杉原千畝の命のビザから1年が経とうとしていた)。

こうして、杉原千畝の勇気ある善意の行動は様々な人々に引き継がれ、多くのユダヤ人の命が救われたのでした(そして、1948年にユダヤ国家イスラエルが誕生)。

ゾラフ・バルハフティク(後述)が乗船した氷川丸(横浜)

(8) リトアニアのホロコースト
杉原千畝がリトアニアを去ったあと、ユダヤ人が懸念した独ソ戦は現実のものとなりました(杉原千畝も、ケーニヒスベルクからドイツは対ソ戦に踏み切ると外務省に報告)。1941年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻します(1939年の独ソ不可侵条約も破棄)。
 
リトアニアでは、ドイツの攻撃を受けて進駐ソ連軍が撤退します。当初、リトアニアにはナチス・ドイツが解放軍と映りました。リトアニアはこれに乗じて独立宣言をしますが、ドイツ軍の進駐が完了すると、結局、8月には新政府は解体されてしまいます。
 
そしてドイツ占領下のリトアニアでも、1941~44年の間にユダヤ人の大量虐殺が起こったのです。この間、リトアニア国内のユダヤ人21万人のうち19万人が犠牲となりました。またソ連領内でも多数のユダヤ難民がシベリア送りとなり絶命しました。

(9) 更に5年の月日を戦乱の欧州で勤務
リトアニアを去った千畝は、ドイツの首都ベルリンを訪れたあと、1940年9月、当時ドイツの保護領になっていたチェコの在プラハ日本総領事館に赴任します。
 
1941年3月から東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館勤務を経て、同年11月から1945年までルーマニアの在ブカレスト日本公使館で勤務しました。
 
(10) 終戦、身柄拘束、そして帰国
第二次世界大戦の終結後、一家はブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束され、ルーマニアの兵営に収容されます。そして1946年12月にようやく帰国できることになり、翌1947年4月にウラジオストクから博多湾に到着しました。
 
帰国後は神奈川県藤沢市鵠沼に居を据え、そして6月7日に外務省を依願退職しました(ただし、杉原千畝と家族は訓令違反により外務省を追われたと認識)。

(11) 再び海外へ
退官後はいくつかの職を転々としたあと、1960年から約15年間、モスクワを拠点に貿易関係の事業に従事し、再び海外での仕事に情熱を注ぎました。

(12) ユダヤ人生存者との再会
1968年夏、杉原千畝は命のビザ受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリと28年ぶりに在日イスラエル大使館で再会します。
 
ニシュリはカウナス駅で多くの仲間と杉原千畝を見送り、「私たちはあなたを忘れない。もう一度あなたに会いに行きます!」と叫んだ青年でした。
 
翌1969年9月、領事館で最初に面会した5人の1人で、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとイスラエルで再会します。
 
この時、彼は初めて杉原千畝が外務省の訓令に背いてビザを発給していたことを知ることになります。そして著書「日本に来たユダヤ難民」(訳・滝川義人氏)の中で、杉原千畝を「廉直高潔の士であった」と語っています。

(13) 名誉回復へ
1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で、日本人として初めて「諸国民の中の正義の人」の称号が送られました。
 
しかし、存命中に日本政府による名誉回復とはならず、翌1986年7月、西鎌倉の自宅で息をひきとりました。享年86歳でした。
 
1991年10月、ソ連崩壊後のリトアニアとの国交樹立に合わせ鈴木宗男氏が幸子夫人を招き、外務政務次官(当時)として、故・杉原千畝の人道的かつ勇気ある判断を讃え、半世紀にわたり外務省と杉原家族との意思疎通を欠いた無礼について謝罪しました。
     
そして政府による名誉回復が行われたのは、2000年10月になってのことでした。外交史料館で鈴木宗男氏肝入りの「杉原千畝氏顕彰プレート」除幕式が行われ、河野洋平外相(当時)が公式に無礼を詫び、当時の人道的で勇気ある行動を讃えたのです。
   
なお、2007年5月には、リトアニアのビリニュスを訪れた天皇皇后両陛下(現・上皇上皇后両陛下)が桜公園の杉原千畝記念碑を訪問されています。

4 杉原千畝のここが凄い(まとめ)
○ 1936年11月に日独防共協定を締結し、更に日独伊三国同盟(1940年9月に調印)の締結に向けて走り出していた時期に、同盟国ドイツの政策に真っ向から反旗を翻したこと
○ 当時、国家の命令は絶対であり、外務大臣の命に背いた時点で、それなりの懲罰を受けてもおかしくはなかったこと
○ ヨーロッパでは歴史的にユダヤ人に対する差別や偏見が下地にあったが、杉原千畝は当初からそのような概念は全く持ち合わせていなかったこと
○ 査証官が日本国民の安全を第1に考え、性悪説に基づいて人をみる習慣が身についている中、常に人道的観点を併せ持っていたこと
○ 杉原千畝がビザを発給した1940年7~8月は、未だナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺戮が始まる前だったこと
【参考】銃殺部隊(アインザッツグルッペン)による大虐殺が始まったのは1941年6月の独ソ開戦以降で、その後、ガス・トラックを経て翌1942年からガス室を備えた強制収容所での虐殺に形を変えた
○ 杉原千畝がビザを発給した1940年7~8月頃は、進駐ソ連軍によるユダヤ人迫害からの回避が課題となっていたが、杉原千畝は独ソ開戦(=進駐ドイツ軍によるユダヤ人迫害)も予見していたこと
○ これだけの偉業でありながら、帰国後はその功績をひけらかすこともなく、不遇にあっても一切恨み言を言わず、ずっと口をつぐんでいたこと
     
5 日本国内の杉原千畝ゆかりの地

杉原千畝記念館(Photo by ISSA)
センポ・スギハラ・メモリアル(Photo by ISSA)
人道の港・敦賀ムゼウム
杉原千畝Senpo Museum
外交史料館(Photo by ISSA)

6 大切にしたい言葉

「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして、報いを求めぬよう」(自治三訣)
 
この言葉は、満鉄の初代総裁でボーイスカウト日本連盟の初代総長を歴任した後藤新平が1920年に創設したハルビン学院(当初、日露協会学校)の講堂に掲げられていました。
 
いわば校訓のようなものであり、杉原千畝や根井三郎などの出身者には行動規範として深く心に刻まれたといわれています。
 
欧米社会には「身分の高い者は、それに応じて果たすべき社会的責任と義務がある」という基本的な道徳観を表すノーブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)という言葉がありますが、これと同じ響きが感じられます。
 
先述したゾラフ・バルハフティクの言葉からも、杉原千畝はまさに「廉直高潔の士(ノーブル)」だったのでしょう。
 
おわりに
杉原千畝は私にとって圧倒的なヒーローです。ヒーローとは、決して悪を退治する力強い者ばかりではなく、ここぞというときに「正義を貫ける信念のある人」だと思います。
 
意味もなく国家・組織・社会に反抗するのが格好いいのではありません。どんな時代が訪れようとも、根っ子にある人間愛とか謙虚さを忘れないように心がけたいとそう思います。
 
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかったーーー。」(杉原千畝)
 
あとがき
2年前、リトアニアのビリニュス大学に留学していた娘の案内で、念願だった在カウナス領事館跡の杉原記念館を訪れることができました。あの時、忙しいのにわざわざ時間を作ってくれた娘には心から感謝しています。