「薩摩隼人」とは何か
鹿児島では、「やっせんぼ」(意気地なし)と対照的な言葉として、勇猛果敢な人には「薩摩隼人」という言葉が使われて来ました。
今回は、西郷隆盛の代名詞とも言うべき薩摩隼人という言葉ができた経緯や、その意味についてのお話です。
そもそも「隼人」とは何か
8世紀、日本が律令国家としての形を整え始めた頃、南九州には隼人(はやと)(注1) と呼ばれる、朝廷に従(まつろ)わぬ人々が居ました。
(注1) 少なくとも7世紀までに南九州に勃興した隼人は、大和朝廷とは習俗を異にし、朝廷から平定されるべき異民族とみなされた
記紀における隼人の記述
日本神話では、天孫・瓊瓊杵尊が日向の地に降臨し、その皇子たちに関わる神話では、海幸彦(隼人の祖先)が山幸彦(天皇の祖先)に従う(注2) という物語が描かれています。
(注2) 海幸彦は山幸彦に「僕は、今より以後、汝命の昼夜の守護人と為て仕へ奉らむ」と誓い、今なお山幸彦の御陵は鹿児島県北部の隼人の地で守られている
時は下り、第12代・景行天皇は、息子の日本武尊に、朝廷に従わぬ熊襲(くまそ)や蝦夷(えみし)などを平定させました(熊襲は隼人と同族とする説もある)。
隼人の興り
2〜3世紀に興った大和朝廷は、5世紀頃から勢力を拡大しますが、所々に朝廷に従わぬ豪族が居ました。
そのうち、南九州に居た抵抗勢力を、当時の朝廷は、一括りに「隼人」と呼びました。
隼人の名の由来
その名は、四神思想に基づいています。
四神とは東西南北で青龍・白虎・朱雀、玄武の神が守っているという思想です。
南を守る朱雀は、漢籍では「鳥隼」と書かれることから、朝廷からみた南方人として「隼」の字を用いた(注3) ようです(諸説あり)。
(注3) 朝廷は、隼人を夷狄(いてき)と見なす一方で、侮りがたい呪術使いとも見ていたので、蔑称の使用を避けたという
情勢の変化
遣隋使の派遣を開始し、十七条の憲法を制定し、冊封から脱却し、初めて天皇と名乗った第33代・推古天皇から、大宝律令を完成させた第42代・文武天皇に至る8世紀は、日本が独立国家の基盤を形成した重要な時期でありました。
そのような大事な時に、朝廷に一向に従おうとしない隼人の存在は、大和朝廷にとり大きな障害となっていたのです。
薩摩国と大隅国の建国
701年の大宝律令によって、初めて本格的な中央集権の統治体制を成立させた朝廷は、日本各地に国・郡・里などの行政区を作り、その国を司る「国司」を派遣しました。
南九州には、朝廷の支配に従わない隼人が居住していたため、一旦、広く日向国と定めましたが、翌702年3月、日向国の一部を分割して薩摩国としました。
更に713年4月、残りの日向国のうち、大隅半島付近の地域を大隅国としました。
隼人と朝廷の戦い
つまり、朝廷は日向国を順次、分割することで隼人の弱体化を図った訳ですが、隼人は、何度もこの朝廷の支配に抵抗して戦いました。
薩摩国が置かれた702年、阿多隼人が朝廷の支配に抵抗して戦い、大隅国が置かれた713年にも、朝廷と大隅隼人の衝突が起きています。
720年、大隅隼人が朝廷から遣わされていた初代・大隅国司を殺害すると、朝廷は(「令和」の語源となった万葉歌でも有名な)大伴旅人を将軍とする1万の軍勢を大隅国に送り込みます。
大隅隼人は数千人が7か所の城に分かれて立てこもり、約1年半にわたり抵抗し続けました(隼人の乱)。
721年に大和朝廷が大隅国を平定すると、以降、隼人の組織的な抵抗はなくなりました。
霧島市隼人町には、この隼人の乱おける死者を弔うために作られた(注4) とされる隼人塚があります(諸説あり)。
(注4) 石塔の四面に仏像が彫られていることから、平安時代の仏教遺跡との見方もある
盛土の上に、多重石塔3基と四天王石像4体が立つこの塚は、かつて、石塔は折れて、石像は塚からやや離れた所に埋まっていましたが、2000年までに現在のように修復されました。
また、南九州の東部地域には「弥五郎どん」という巨人伝説(注5) が残っていますが、この弥五郎どんが隼人最後の首長ではないかと言われています(諸説あり)。
(注5) 身長4メートル、赤い顔に黒ひげを蓄え、両手で矛を持ち、腰に2本の刀を帯刀していたと言い伝えられている
何百年も前から地域で受け継がれてきた弥五郎どん祭りでは、弥五郎どんが神々の先を歩いて魔払いを行います。
隼人の盾
実際、畿内に移住した一部の隼人(畿内隼人)は、天皇が行幸する際、先導しながら吠声で魔払いし、天皇を守るという役割を任されていました。
隼人の象徴として有名なものが「隼人の盾」です。
10世紀に書かれた延喜式(えんぎしき)に記録されている隼人の盾の模様が、1964年の平城宮発掘で発見された井戸枠(注6) の板に描かれた模様と一致し、隼人のものと分かったそうです。
(注6) 井戸枠に盾が使われたのは、当時貴重だった水を隼人の呪術で守るためだった
隼人の盾には、上下に鋸の歯の模様と、内側に渦巻模様があり、いずれも魔よけの意味を持つと考えられています。
この動画は、約1300年前に隼人が宮廷で演じたとされる「大住隼人舞」です。
大住隼人舞は、現在、京都府京田辺市の民俗芸能となっており、大住の名称も「大隅」に由来するようです。
その後、隼人はどうなったのか
このように、畿内隼人は天皇の近くで守護役を務める一方、南九州に残った薩摩隼人や大隅隼人は、次第に大和民族と同化していきました(9世紀初頭以降、南九州の人々を隼人と呼称する史料は見られなくなった)。
島津家の強さとの関係は
その後、南九州の覇者は、12世紀後半から約700年にわたりこの地を治めた島津家に取って代わります。
初代・島津忠久は元々、源頼朝と共に平家追討に加わっていた京都出身の御家人で、1197年から薩摩国・大隅国の守護に任じました。
最盛期には、九州全域を治める勢いで「戦国最強」とも称されました。
その強さの秘密は、15代当主・島津貴久の作った外城制(とじょうせい)(注7) にあります。
(注7) 領内の各地に地頭(上級武士)と衆中(下級武士)を配置し、いざという時には、地頭の令で半農半士の衆中たちが集結して事に当たるというシステム
薩摩は関ヶ原で敗戦し、「一国一城令」の後も外城制を止めませんでした。
薩摩藩では武士の比率が30パーセント近くを占めていたからです(他藩での武士の比率は7パーセント程度)。
その後、徐々に地頭たちは鹿児島城下に移り、衆中は郷中(ごじゅう)と呼ばれるようになります。
郷中の中で、更に数百人単位で作られた青少年の防衛組織を兵児組(へこぐみ)と呼びました。
郷中教育は、こうした環境の中で、二才(にせ)と呼ばれる15〜25歳くらいの年長者が、稚児(ちご)と呼ばれる6~15歳くらいの年少者を教育するシステムでした。
島津家と隼人の因果関係は定かではありませんが、こうした薩摩藩独自の兵役・教育システムに支えられて、土地柄としての隼人の気風が島津の強さの下地になっていた可能性は否めません。
「隼人」の理解の変化
時代は下り、18世紀の国学者・本居宣長は、著書「古事記伝」の中で、「隼人は南九州にいる敏捷く勇猛き人のことで、隼のように迅速い人」と説明しました。
当時、多くの人に読まれた「古事記伝」に書かれたことから、隼人が再び注目されるようになります。
特に、薩摩藩士が目指すべき武士の理想像が語られる中で「薩摩隼人」という言葉が再定義(注8) されていったと考えられます。
(注8) 古来、阿多隼人、大隅隼人と対比する意味で「薩摩隼人」(=旧・薩摩国の隼人)という言葉自体は存在していたが、ここでいう薩摩隼人は、薩摩藩の武士のを指す
まとめ ~ 「薩摩隼人」とは何か
冒頭で述べたように、8世紀初頭に編纂された古事記や日本書紀には、隼人の存在がうかがわれます。
日本が律令国家として歩み始めたこの頃、地政学的にも重要な地域に居た隼人を、何とかして朝廷に従わせる必要があったのでしょう。
記紀編纂に際して、次の事が考慮された可能性が指摘されています。
● 日向(隼人の地)は、元々は朝廷の支配地域であったことを示す必要から、天孫降臨や神武東征の舞台は日向に設定された
● 天皇と隼人の主従関係を示す必要から、海幸山幸物語は、山幸彦(天皇の祖先)に海幸彦(隼人の祖先)が従うように創られた
● 朝敵はいずれ討伐されることを分からせる必要から、皇子・日本武尊による熊襲(≒隼人)や蝦夷の討伐が、物語に組み込まれた
こうして、720年までに編纂された記紀に隼人の存在を盛り込み、隼人を日本史の一部にすると同時に、721年に隼人の乱を平定後、彼らに天皇の守護人としての名誉ある地位を与えたことで、大和朝廷は、隼人を頼もしい味方に取り込むことに成功しました。
裏を返せば、隼人はそれだけ朝廷にとり手ごわい存在だったと言えます。
その後、隼人は大和民族に同化し、南九州から隼人と呼ばれる人々は居なくなりましたが、畿内隼人は天皇の守護人であり続け、鎌倉時代の幕開けとともに、政治の実権が天皇から侍へと移り変わってもなお、勤王の心意気は、引き継がれました。
一方、大隅隼人には弥五郎伝説や神事が残り続け、彼らが生きた証は地域に根付いていったと考えられます。
やがて本居宣長によって「薩摩隼人」が再定義されたことで、薩摩藩士は、彼らが目指すべき理想の武士像を再認識したのです。
そのような、とりわけ倫理感と勤王色が強い気風・土壌の中で、やがて島津斉彬公、西郷隆盛、東郷平八郎などの偉人が次々に生まれ、倒幕・王政復古へのうねりを生み出し、明治維新に向かう原動力や、日本海海戦でロシアを打ち破る力の源泉になっていったのではないでしょうか。
「薩摩隼人」とは何かーーー
それは、大和朝廷によって討伐され、歴史の狭間に消えてしまった夷狄などではなく、「天皇の大御心によって皇国の守護者となり、勇ましさの象徴として薩摩の人々の心に存在し続けたスピリット」である。 − ISSA −