見出し画像

薩摩偉人伝 ~ 西郷隆盛(前編)

私のこの地での最大のテーマは、稲盛和夫という巨頭を生み出す原点となった西郷隆盛にあるのですが、推敲を重ねてようやく記事がまとまりました。

前編では、私自身の頭の整理として、波瀾万丈だったその足跡を振り返り、後編では、私たちが手本とすべき考え方や教訓などを導出します。(以下、文字削減のため「である」調・敬称略で記載)

生い立ち
1828年1月、西郷隆盛は、薩摩藩城下の加治屋町に薩摩藩士の長男として生まれた。西郷家は大家族で、その暮らしは決して裕福ではなかった。

西郷隆盛の生家を再現した模型
(Photo by ISSA)

西郷は、子供の頃から大柄でキリっとした顔立ちだったという。13歳の頃、喧嘩の仲裁で右腕を刀で切られ、それ以来、剣術を諦めて相撲や勉学に勤しんだ。

武家屋敷と郷中教育《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

藩の郷中教育のほか、16歳で寺に通いを習った。

郡方書役助に任ず
17歳から10年間、郡方書役助(農民の年貢の額を決める役職)を務め、村々を巡回。

正義漢の西郷は、重税に苦しむ農夫のために減税に力を尽くした。

NHK大河ドラマ「西郷どん」

1851年、名君・島津斉彬が薩摩藩の藩主となり、西郷は尊敬する斉彬のために働けることを心から喜んだ。

斉彬の御庭方に採用
西郷が、藩に提出していた農政改革などの建白書が斉彬の目に留まり、斉彬は西郷の存在を知る。

1854年1月、西郷に参勤交代に加わるように命じ、その人柄に確信を得た斉彬は、4月から江戸で西郷を御庭方として採用し育て、

攘夷論にいきり立つ西郷に「西洋を侮るな、事情もわきまえずに攘夷に走るのは危険だ」と諫めて、「国力をつけた上で開国し、対等に渡り合うべきだ」と教え諭した。

NHK大河ドラマ「西郷どん」

斉彬の密使となる
1853年に黒船が来航したとき、将軍・徳川家定に策はなかった。老中・阿部正弘や斉彬は、一刻も早く日本を列強並みに強くするため、名君・一橋慶喜を次代将軍に仕立てようと考えていた。

斉彬の使者として慶喜の拠点・水戸藩邸に出入りし、英才達と触れ合う中で、次第に西郷の視野も開かれたものになっていく。

そのような中、1854年3月に日米和親条約が締結される。

日米和親条約締結の地《横浜開港資料館》
(Photo by ISSA)

篤姫の縁組に尽力
斉彬は、慶喜を将軍にするように家定に働きかけるため、養女・篤姫の輿入れを画策。西郷が使いとなって奔走し、1857年に篤姫は家定に嫁いだ。

しかし、1858年4月、南紀派の井伊直弼が大老になると、徳川慶福(後に家茂に改名)を次期将軍に決定し、一橋派を退け始めた。

7月、井伊は勅許(朝廷の了承)を得ずに、日米修好通商条約に調印。翌日、家定が死去し、篤姫は若くして未亡人となった。

斉彬は兵を率いて上京し、井伊の行いを糾すつもりだったが、矢先、その斉彬が急死

安政の大獄と月照
西郷は嘆き悲しみ、後を追って自害しようとしたが、孝明天皇の勤王僧・月照に諭され思い留まった。幕府改革、その為に朝廷を動かす。それが西郷の志となった。

しかし、9月からの安政の大獄で倒幕派は次々に処罰され、西郷と月照も幕府に追われる。

何とか薩摩に逃げ帰ったが、幕府の追跡を恐れた薩摩藩は、月照の日向追放(国境で斬り捨て)を命じた。

左:僧月照肖像《国立国会図書館》
右:西郷と月照《西郷南洲顕彰館》

失望した2人は、満月の中、藩の屋形船から錦江湾に身を投じる。しかし、西郷だけが蘇生し生き残った。

奄美大島に潜拠
年が明け1859年1月、西郷は幕府から身を隠すために奄美大島へ遠島となった。

菊池源吾と名を変えて島娘の愛加那と同棲し、3年間の島暮らしで一男一女(菊次郎菊子)をもうけた。

一方、薩摩では10月に島津斉興が死去。斉彬の異母兄弟・久光が実権を握り、公武合体(朝廷と幕府の連立政権)の実現に乗り出す。

また、攘夷派の活動も活発化していく。1860年3月、井伊は水戸浪士らの襲撃を受けて死亡(桜田門外の変)。井伊を仕留めた有村次左衛門は薩摩藩士だった。

島津久光との確執
1862年2月、大久保の働きで西郷は薩摩への復帰を許される。

久光による率兵上京の企てを聞いた西郷は、「地ごろ(田舎者)が京や江戸に行って何ができるか」と言って反対。

久光との確執は更に深まったが、西郷は程なく了承し、先発隊として京へと出発する。

その頃、長州のみならず薩摩でも攘夷派が色めき立っており、特に急進派の思いは頂点に達しようとしていた。

「今、日本人同士が争えば、それこそ列強の思うツボだ」

西郷隆盛と島津久光

そう考えた西郷は、倒幕後のビジョンもないまま熱り立つ急進派を抑えるため、「下関で待て」という久光の命に背いて京に向かったが、捕縛されて大坂から帰藩させられる。

その頃、急進派は薩摩藩の定宿である伏見の寺田屋に集まっていた。

1862年5月、久光は藩主に従わない急進派を快く思わず、藩士に命じて同士討ちさせた(寺田屋事件)。
 
沖永良部島に流される
8月、久光の命に背いて怒りをかった西郷は徳之島に遠島された。奄美大島からの召喚から僅か5か月後のことであった。

その2か月後、更に沖永良部島に流刑となり、海辺に作られた2坪ほどの牢に投獄された。西郷は一言も弁解せず刑を受け入れ、劣悪な環境と食事により次第に衰弱していった。

その後、川口雪蓬という学者と出会い、1,000冊以上の書物を読んだ。この獄中生活で「敬天愛人」の考え方が生まれた(後半の文筆活動では「西郷南洲」の名を用いた)。

敬天愛人《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

8月、久光一行の前を横切った英国人が殺傷される(生麦事件)。

翌1863年、この報復で英艦隊が錦江湾に攻め込み、艦砲により薩摩藩の城下は火の海となった(薩英戦争)。

薩英戦争砲台跡《祇園之洲公園》
(Photo by ISSA)

その時、西郷は未だ沖永良部の牢獄にいた。しかし、島民も目付け役も次第に西郷の人柄に魅了されていく。西郷もまた、島民のために尽くした。

久光が目指した公武合体が行き詰まると、1864年2月、再び大久保の尽力で薩摩に帰還。

軍賦役に抜擢
西郷と久光、両者の心中は穏やかではなかったが、周囲に推された久光は、西郷に軍賦役・兼諸藩応接係(軍事・外交の責任者)を申し渡した。

この頃、長州は壌夷・倒幕の中心的存在となっていた。

7月、新選組が長州藩士を襲撃した池田屋事件をきっかけに、長州軍が入京。これを阻止するため、薩摩にも出兵命令が出た。

8月、京都で薩長が衝突し、京が焼け野原になる(禁門の変)。

NHK大河ドラマ「西郷どん」

勝海舟との出会い
その後、幕府が長州征伐の勅許を得たことで、長州は朝敵(朝廷の敵)とされ、西郷は幕府軍の参謀を命じられた。

西郷は、幕府海軍の出兵を要請するため、軍艦奉行・勝海舟を訪ねる。

すると、勝海舟は幕臣でありながら「幕府の政治はもはや限界、これからは諸藩が手を取り合って政治を行う世にすべきだ」と語った。

西郷は、勝海舟の知見と懐の深さにすっかり感銘し、平和的解決で同意。結果、長州征伐は戦わずして終息した。

薩長同盟
1866年3月、龍馬らの仲介で薩長同盟が締結される。西郷が、藩主・久光と幕府から寝返ったことで倒幕の機運が一気に高まり、維新への大きな転換点となった。

幕末の志士《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

その2日後、(1862年とは別の)寺田屋事件で龍馬が手傷を負う。西郷は、大坂から龍馬を蒸気船に乗せ、薩摩でかくまった。

龍馬は温泉で傷を癒しながら霧島に滞在。お龍と二人で高千穂峰にも登った(日本人の新婚旅行の始まり)。

1866年3月、薩長同盟に土佐と肥後が加わり四藩同盟に発展。公式台体派は衰還していった。

慶喜が将軍になる
8月、かつて井伊直弼の推挙で将軍となった家茂が死去し、ようやく斉彬や西郷が推していた慶喜が第15代将軍に就任した。

しかし、西郷の信念は8年前とは大きく異なっていた。

この頃、西郷は「徳川を完全に排除しなければ、この国に未来はない」と考えるようになっていた。

大政奉還と王政復古
一方、薩長と戦えば身が危ういと考えた慶喜は、1867年11月、先手を打って大政奉還(政治権力を朝廷に返還)し、本営を江戸から大坂に移す。

しかし、慶喜は将軍職は辞しておらず、引き続き、強い軍事力を保持していた。

これに対し、岩倉具視ら倒幕派公卿と、薩摩・土佐などの5藩が決起し、慶喜に将軍職も返上するように迫った。

1868年1月、明治天皇より王政復古の大号令が発せられ、事実上のクーデター政権が樹立。

左から大久保、西郷、岩倉

薩摩・長州・土佐等を中核とする新政府軍が編成され、徳川や佐幕系勢力に対する武力討伐の動きが固められていった。
 
戊辰戦争
1868年1月、江戸市中を攪乱して挑発を仕掛けた新政府軍と、これに憤激した旧幕府軍が鳥羽・伏見で衝突。

これを発端として戊辰戦争が始まる。薩摩の本営に錦の御旗が掲げられ、旧幕府軍は朝敵とされた。

追い詰められ慶喜は、大坂城を脱出し江戸城へ逃走。その後、江戸城は新政府軍に包囲される。総攻撃前、西郷は薩摩藩邸で勝海舟と会談。

結果、西郷は勝からの「慶喜謹慎、江戸城明け渡し」の提案を受け入れ、江戸城への攻撃を中止した(1868年5月、江戸の無血開城)。

1868年9月、幕府側で戦った庄内藩が降伏した際、西郷は寛大に取り扱って庄内藩士を処分しなかった。

西郷の器の大きさに感服した庄内藩士は、西郷への信望を深め、一部の者は西郷に師事して、その言葉を記録に残した(後年、「南洲翁遺訓」として、西郷の偉大さを世に知らしめた)。

西郷隆盛の遺訓は、今なお
多くの人に支持されている

1869年5月、五稜郭が陥落し、戊辰戦争は終結。

西郷には維新の功労者として賞典禄が与えら、新政府への残留を促されたが、それを固辞し、薩摩に帰郷した。

薩摩では、藩政にも就かず畑仕事に精を出す。この頃から隆盛と名乗る。奄美大島の菊次郎を預かり、沢山の犬を飼うようになった(多い時は20頭ほど飼っていた)。

左:愛犬ツンの像《薩摩川内・藤川天神》
右:愛犬ツンの像《西郷銅像撮影ひろば》
(Photo by ISSA)

兎狩りが上手な愛犬ツンは、薩摩川内の前田善兵衛から献上された。

版籍奉還と廃藩置県
1869年7月、木戸孝允や伊藤博文らが主張してきた版籍奉還が勅許され、274の大名から版(土地)と籍(人)が朝廷に返還されたが、未だ、藩体制は残されていた。

残るは廃藩置県。しかし、侍には、次々に職や誇りが召し上げられると映る。

侍の反乱を抑えるには、どうしても侍からの信望が厚い西郷の入閣が必要で、勅命により西郷を新政府に呼び戻して陸軍大将に任命した。

陸軍大将の制服
(Photo by ISSA)

一方、東京、大阪、仙台、熊本に鎮台(地方警備の政府軍)が置かれた。

1871年8月、西郷と鎮台が睨みをきかせる中、廃藩置県の詔書が下され、四民平等も布告された。

これにより、やがて自分たちの世が来ると信じて戦った、人口の約7%を占める侍が、一斉に職と地位を失った。

岩倉視察団が出発
1871年11月、日本の国力を異国に認めさせ、知識・技術を取り入れ、旧幕府と結んだ不平等条約を解消するため岩倉を長とする視察団が派遣された。

岩倉視察団

西郷らは「留守政府は、何も決めごとはするな」と言われていたが、政府内で汚職が明るみになり、士族の不満が高まるなど、使節団の帰りは待ってられなくなった。

やがて西郷は、徴兵、裁判所、太陽暦、地租など、留守政府を動かし始める。

征韓論
そのような中、政府内で征韓論(朝鮮を武力で開国させようという考え)が巻き起こる。

朝鮮は、クーデター政権である明治政府が信じられず、日本との国交を拒絶。居留民と朝鮮人の交流が禁じられる中、板垣退助らが居留民保護の名目で軍を派遣すると主張。

「今、アジア人同士が争えば、それこそ列強の思うツボだ」

そう考えた西郷は、「おいどんが行って、直接交渉する」と言い出した。

征韓議論図《1877年、鈴木年基作》

1873年9月、ほとんど成果もないまま岩倉使節団が帰国。大久保らは、西郷の朝鮮派遣に真っ向から反対し、次第に大久保と西郷の間に溝ができる。

一旦、西郷の派遣は決まったものの、再び大久保らに阻止されて、西郷は最後まで居留民を心配しながら下野した。

再び薩摩に帰郷した西郷は、狩りや温泉に出かけた。

上:西郷どん湯《霧島市日当山》
下:西郷隆盛像《指宿市鰻温泉》

日当山や鰻池などの温泉地での湯治にも勤しんだ。

「徳の交わり」銅像《西郷屋敷跡》
(Photo by ISSA)

この頃、庄内藩の元家老・菅実秀(写真左)らによって先述の「南洲翁遺訓」がまとめられた。

私学校の設立
しかし、一部の侍は御役目を捨ててまで西郷の膝元に戻ってきて、その後も薩摩に戻る侍は増え続けた。

1874年、西郷は、そんな行き場を失った連中のために、私財を投じて鶴丸城の厩跡に私学校を開校し、更に12の分校を作った(1876年には2万人に膨れ上がった)。

左:陸軍火薬庫跡《鹿児島市草牟田》
中・右:私学校跡《鹿児島市城山町》
(Photo by ISSA)

その後の家禄廃止廃刀令を機に、各地で士族の反乱が起きるようになり、次第に西郷の決起に期待する声が高まっていった。

西南戦争
そのような中、1877年1月、密偵が捕まり西郷暗殺計画を自白。更に生徒の急進派が政府の陸軍火薬庫を襲撃。

大隅半島の根占で猟に勤しんでいた西郷は、この報に接したとき「ちょっ、しもた!」(ああ、しまった!)と叫んで、急いで鹿児島に戻った。

上:南洲翁宿所跡《南大隅町根占》
下:南洲翁最後之宿泊地《鹿屋市高須》
(Photo by ISSA)

「おいの身体、おはんらに差し上げもんそ」

西郷はそう言って、遂に挙兵を決意。

1877年2月、県庁宛の書簡に「政府に尋問の筋これあり」と出陣の大義を書き連ね、大雪の中、1万を超える軍(以下「薩軍」)を率いて進軍を開始。長男・菊次郎や弟・小兵衛も軍に加わった。

勅書が下り、朝敵とされた薩軍は、熊本城の南側にある川尻の宿に到着する。

薩軍本営跡《熊本市川尻》
(Photo by ISSA)

すると、熊本城から火の手があがった。翌日、熊本城で攻防戦が始まる。

熊本城は、薩摩などの外様に対する布石として、1607年に加藤清正が7年の歳月をかけて築き上げた名城。

右:震災前の熊本城の勇姿
(Photo by ISSA)

薩軍は、武者返しでも有名なこの城を落とすことは出来なかった。

「わしは官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」

西郷は、そう言って熊本城から撤退。熊本城は、築城から270年の時を経て、その堅牢さを証明した。

田原坂の戦い
熊本城の北西に位置する田原坂は、最大の激戦地となった。

西南戦争で一番若くして亡くなった者は僅か13歳だった。

この美少年像は、西南戦争で亡くなった全ての若年兵への鎮魂と敬意をこめて1990年に建てられた。

美少年の像《田原坂公園》
(Photo by ISSA)

雨は降る降る人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱
馬上豊かな美少年

熊本県民謡「田原坂」 

両軍の攻防は17昼夜に及び、1日当たり32万発の銃弾が使われた。白兵戦では剣術に勝る薩軍が優勢だったが、官軍の大量の砲銃を前に、戦況は益々厳しくなり、

田原坂西南戦争史料館《熊本市北区植木》
(Photo by ISSA)

西郷の弟・小兵衛も戦死した。

西郷小兵衛戦死之碑《熊本県玉名市》
(Photo by ISSA)

増え続ける薩軍の負傷者を、地域の民間人が手当した。

田原坂は、日本赤十字社の前身・博愛社が生まれた場所であり、日本赤十字発祥の地とされている。

田原坂西南戦争史料館《熊本市北区植木》
(Photo by ISSA)

薩摩を出て2か月、ついに撤退を余儀なくされる。4月末から約1か月、人吉の永国寺に本陣を置いた。

左:永国寺の楼門《永国寺》
中:西郷本営跡碑《永国寺》
右:勝海舟の書、戦死之碑《林鹿寺》
(Photo by ISSA)

その後、宮崎・延岡に逃れ、

左:薩軍装備品《田原坂西南戦争史料館》
右:薩軍が辿った経路《延岡観光協会

8月、延岡の本陣で、西郷は遂に解散令を出す。

その後、鹿児島に戻った西郷は、370名の侍と共に城山に立て籠もった。

西郷隆盛洞窟《鹿児島市城山町》
(Photo by ISSA)

西郷は、自身の後任者・山形有朋からの投降勧告を固辞。やがて、総攻撃が始まる。その咆哮は、西郷の無事を祈る実家にも轟いたという。

「晋どん、もうここらでよか」

そして、別府晋介の一刀で西郷の首は落ちた。

上:西郷隆盛終焉の地《鹿児島市城山町》
左:西郷隆盛の終焉《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

その亡骸は、今も南洲神社で眠っている。

西郷隆盛のお墓《鹿児島市・南洲神社》
(Photo by ISSA)

約7か月に及んだ日本最後の内戦は、鹿児島・熊本・大分・宮崎の九州4県にまたがり、約14,000人の若者が命を落とし幕を閉じた。

これら両軍戦没者の名は、田原坂にある西南役戦没者慰霊之碑に刻まれている。

西南役戦没者慰霊之碑《熊本市北区植木》
(Photo by ISSA)

西郷隆盛のルーツ
西郷家の祖先は菊池一族と言われ、西郷家の初代・太郎は菊池家の初代当主・則隆の子とされる。第26代・九兵衛のときに、薩摩に移り住んだ。

西郷隆盛の家系と名の変遷
(Created by ISSA)

隆盛は、西郷家の第32代となる。家紋も菊池一族と同じ鷹の羽根で、奄美大島では菊池源吾と名乗り、子供たちに菊次郎・菊子と名付けたことからも、菊池一族末裔としての誇りがうかがわれる。

左・中:西郷南洲公園《菊池市七城町》
右:菊池武光騎馬像《菊池市菊池公園》
(Photo by ISSA)

本名は隆盛ではなかった
明治以前の男子は、通称と実名の2つの名を有していた。西郷は実名を隆永としていたが、維新後、西郷の友人が代理で届出る際、誤って西郷の父の実名「隆盛」で届出たという。

名誉回復
1889年2月、大日本帝国憲法発布の日、明治天皇の御意向で正三位を贈られ、西郷の名誉は回復された。

1891年から銅像建設の募金が始まり、1898年12月、かつて西郷率いる政府軍が、旧幕府軍を討伐した上野戦争ゆかりの地に西郷隆盛像が完成した。

日本各地の西郷隆盛像(左から、鹿児島市
城山町、霧島市西郷公園、台東区上野公園
(Photo by ISSA and Daughter)

1898年12月、西郷の妻・イトは、初代・海軍大臣を務めた西郷従道とともに銅像の除幕式に参加。大勢が見つめる中、従道の娘が幕を取る。

すると、イトは銅像を見てこう漏らした。

「うちの人は、こげなお人じゃなか」

西郷は写真を一つも残さなかったことで有名だが、上野の銅像は、1878年に伊人画家・キヨソーネが描いた肖像画を基に作られていた。

左から、キヨソーネ、西郷隆盛の肖像画
(キヨソーネ作)、西郷従道、大山巌

この肖像画は、顔の上半分は弟の従動、下半分は従弟の大山巌を基に描かれていた。

また、薩軍として終えた西郷に軍服を着せる訳にいかず、ラフな着物姿になったことから、イトには「こげなお人じゃなか」と見えたのだろう。

前編は、以上となります。

後編では、こうした西郷隆盛の生涯を踏まえ、私たちが手本とすべき考え方や教訓などを導きたいと思います🍀