見出し画像

カント哲学の奥にある本音

カント哲学について東京大学で学んだという友達が、学部を卒業した後に「何もわからんかった」と言った。カントについて研究すると大抵の人が混乱し、最終的な確信に至れない理由について考える。


1:純粋理性批判

人間がものを考えたり感じたりするとき、目で見たり耳で聞いたりすることのほかに「見たことも聞いたこともないもの」を考える場合がある。見たことも聞いたこともないのにどうして考えられるのか?あるいは、道路標識みたいな記号を見ただけで「これは自動車」「大人と子供が手をつないでいる」と想像したり、その概念を捉えたりできる。なぜそんなことが出来るのか?

じつは、記号や概念が人間に影響を与えているのではなく、それぞれの人間が頭の中で都合よく解釈しているだけなのだ、というのが純粋理性批判の序盤の話である。

2:純粋理性批判の疑問

哲学の話というと、ボールペンを手に取って見せながら「これはボールペンであり、それでいてボールペンではない」とかいう難しい会話をイメージする人は多いと思う。1のような話にもそういうノリがある。ただ、カントは認識どうこうとか概念どうこうという話それ自体をメッセージにした訳ではない。

カントが気にしていたのは、宗教や思想の異なる主張だ。ヤハウェという方が全宇宙を作った。いや、最初は何もない。大きな爆発が起こって、そこから色々な偶然が起こって今の地球ができた。こういう「起源」系の話題から、「人は死んだあとどこへ行くのか」というような話題まで、民族や思想によって様々である。

3:自分の頭で考える

ショーペンハウアーも同じようなことを書いていたが、カントのはそれと少し違う。カントが主張したいのは大体こんな感じだ。常識や思想、道徳観、教義などを自分の思想だと思い込んでいても、実際には他人から教わったことをなぞっているだけである。(ただし、だからといって自分の脳をフル回転したところで死後の世界や宇宙の起源は分からない)

4:平和のすすめ

1から3の内容を考えれば、宗教によって戦争したりするのはおかしいといえる。理性をもって生きよう。そうすれば個人として正しく生きられるし、国家としても正しいものを維持できる。

ものすごく大ざっぱに言うと、以上がカントの主張である。分からない人がなぜ分からないのかというと、彼自身が生前に味わってきた「聖書の教えって本当に真実なのか?」というシンプルな疑問を見落としているからではないかと私は思う。

ここまで読んでくれた人には分かってもらえると思うが、たとえば聖書の記述については「真実とも嘘とも証明できない」。なのに100%真実、もしくは100%嘘だと確信したり、そのように他人を教育したりすると平和が脅かされるというわけだ。そりゃそうだよね。なにも聖書に限ったことではない。どんな生き方にせよ、それが真実だと理解しているのではなく、心で信じているからそう生きられるのである。