お父さんの死んだ日

今日はタイトル通り、父の命日です。亡くなってもう16年も経ったと今朝Facebookが教えてくれました。先日の記事で書いた通り、不遇の少年時代を送った父は48歳で他界しました。今日はその思い出を書きたいと思います。

でも、正直あまりよく覚えていません。

だから、医学的に不正確な記述もあると思います。何しろまだ子どもでしたので、医師からの説明もよく聞かされていませんでした。

毎年父の日と命日には父の亡くなった時の事を思い出してFacebookに記事を上げてきました。でも、いつもなんとなくぼんやりとしか思い出せない。印象的なエピソードがぽつりぽつりと浮かぶだけ。今日の記事は散文的なものになりそうですが、お付き合いいただけたら幸いです。

この記事を読んで欲しい人

親子関係に悩んでいる人
親と死別している人
えびちゃん先生に興味がある人   です

始まりは突然

身長180㎝、体重は110キロ。大酒飲みで、ヘビースモーカー。
もうこれだけで長生きしなさそうな雰囲気が十分漂っています。

でも案外体は丈夫で、熱も出さないケガもしない父でした。(酔っ払って路上で寝ていたら新聞配達のバイクに轢かれて背中にタイヤの跡がついて帰ってきたことがありましたが無傷でした。)

そんな父が、2005年の6月中旬、「身体がだるくて仕事に行けない。」と言って仕事を休んだのです。

「珍しい…風邪かな?」と家族の誰もが思っていました。父自身もそう思っていたので、市販の風邪薬を飲んだり、葛根湯を飲んだりしていましたが一向に身体の怠さが消えず。重い腰を上げて病院に行ったのが6月最終週だったと思います。

診察の結果、即日入院が決定しました。


肝硬変でした。

病気との長い付き合いを覚悟していたのだけれど…

入院すると、すぐに食事が制限されました。元々酒も甘いものも味の濃いものも大好きだった父は我慢できず、こっそり売店で「たけのこの里」を買ってきたものを私たちきょうだいに見せ、まるでいたずらっ子の様な表情で「一日一個だけ食べるんだ」と言っていました。

そのたけのこの里は、食べきられることはありませんでした。

入院して2週間ほどで父は意識を失ってしまったのです。

私と同じく、出来事を記すのが好きだった父なので、入院してすぐに小さなノートを買って、排尿・排便の回数、血圧やその日に見舞いに来た人、思ったことなどを書き留めていました。

父は意識を失いながらもそれを書いていたようで、ノートには字にもならない線が何か書かれていました。

一体何て書きたかったんだろう。

父が死ぬ…生活はどうなる?

弟は当時、浪人中で時間の融通が利きましたから毎日父の元を訪れて、父のノートにその日点滴されていたものや看護師さんからの指示、言葉かけなどを記録していました。(進路未定だった彼は、この時医療分野へ進むことを決意したようです。)

私はというと、大学4年の前期、ちょうど試験期間でなかなか病院に足を運ぶことはできませんでした。

でも、アルバイトを休みにして、なるべく早く家に帰って母と弟に父の様子を聞いたりしていました。母は病院に付き添っていることが多かったので、弟と過ごす時間が長かったです。

7月の暑い夕方に、弟と2人縁側で線香花火をしながら、行く末を話し合ったことは今でもよく話に上がります。

父の稼ぎだけで生計を立てていた我が家ですから、父が亡くなったらどうなってしまうのかというのは大変不安なことでした。

そして翌日、弟と病院に行くと、昨晩は父が人工心肺がつながった身体で横に眠る母に向かって何度も寝返りをうって、夜通し看護師さんのお世話になったと聞きました。意識もないのに。母に向かって言葉にならないうなり声を発しながら何度も何度も。

何を伝えたかったのかな。

私は、その夜を境に父は「肉体的には生きている」けれど「精神は死んだ」と思っています。

医師から、「会わせたい人がいたら、呼んで差し上げてください。」と言われました。

父の兄弟姉妹、祖父、友達。皆さんに来ていただいて、「もういいかな」と判断した私たちは、延命治療をすることを止めていただきました。

つながれていた機械が外されて、父が少しずつ彼岸に向かっていく。

みんな泣いていたけど、一つも涙が出なかった。

自分は薄情な娘なのかも、と思っていた事を覚えています。

父の死後

葬儀は、祖父が手配してくれました。大変盛大な葬儀で、100人以上の弔問客があったと思います。父の友達の多さを実感しました。
中学校3年生の担任の先生、という方も来てくれました。
教師になった今だから分かりますが、卒業して30年以上も経っているのに葬儀に参列するなんてこと、まずありません。先生の思いやり、温かさは私も見習おうとずっと思っています。

喪主は母でしたが、疲れ果てていて、喪主挨拶で立ち上がったものの、話などできる状況でなく、急遽母に代わってあいさつをしました。

「ご多用の中、父の葬儀に参列いただきましてありがとうございました。この様に温かく見送っていただけて、父も喜んでいることと思います。これからは親子3人、力を合わせて頑張って行きます。今日は本当にありがとうございました。」

何にも打ち合わせしていなかったのに、するすると言葉が口から出てきました。

人前で話すことが大好きだった父に、よく似ていると色んな人から言われてきましたが、その父に似たところが役に立ったようです。

ともかく、私たちは16年前の今日、3人家族になりました。

弟を学校に通わせるために、絶対に教員採用試験に受からなければならない。葬儀の前に1次試験に合格していた私は、2次試験に向けて猛烈に勉強しました。その甲斐あってか、無事合格して翌年から教員として働き始める事になります。

弟は、臨床検査技師の道を志し、専門学校へ通うことになりました。学費は、保険金でなんとかまかなえました。

母はその後髄膜炎にかかり、しばらく入院しました。今は元気です。

父に認めてもらいたかった気持ちが解消されなかった私が今困っていること

こちらの記事で書いた様に、勉強を頑張っても誉めてもらえない…それどころか父のコンプレックスを刺激してしまう自分が本当に嫌いでした。

それに、父はよく、「おまえが生まれなかったら母ちゃんと結婚なんかしないで済んだのに」と私に言ってきていて、ずっと「私って何で生きてるんだろうなぁ」と思い続けた人生でした。

年を重ねた今なら、私が生まれちゃったのは父と母の勢いのせいだし、私に落ち度はないことは分かるんですけどね。

ともかくまぁ、父に認めてもらえなかったことは、私のメンタルヘルスに大きな陰を残しています。時折どうしようもなく消えたくなっちゃうのも、父との関係の影響が大きいのかなって思います。一応教師の端くれなので、発達心理学の勉強なんかをしていますので、自分の気持ちの不安定さの原因を考えたり、対処したりもがきながら生きているところです。

親子関係のもつれが子どもにもたらす影響の大きさって計り知れないなって思います。

私だから寄り添える

私が今部活動で接している子どもの中に、親子関係が上手くいっていない子がいます。お父さんからもお母さんからも誉めてもらえない。私は頑張ってるのに。どうして温かく抱きしめてくれないの?って彼女が泣くたび、激しい共感を覚えます。
でも、彼女に対して今日、ある同僚が「親から評価されること、他人から評価されることじゃなくて、自分がどう思うかを軸に生きていけばいいのにね。」と言っているのを聞いてしまいました。

親や他人からの評価でなく、自分を軸に生きていけるのは親から一定の愛情を注がれている人だからこそできることだと思うんですよ。

「親という唯一無二の存在」が、私を肯定してくれている、このベースがあるから、他人の評価じゃなくて自分を軸に切り替えていけるんだと思うんです。あの先生は親から愛されて生きてきたんだろうなって思いました。

たまに、私の様なメンタルの弱い人間が教師として子どもたちの前に立っていることが申し訳なくなることがあるのですが、私と同じような思いをしている子どもたちの気持ちは、私はよく分かる。彼らの親代わりになってあげることはできないけど、いくらでも話を聞いて、心から共感することはできる。だからこれからも教師を続けて行こう。

父の命日である今日の日に、同僚の発言をきっかけにして色々と考えることができたのは幸いでした。

夏休みではありますが、夏を越えたらまた教師として一つ大きくなっていられるように、いい休みを過ごしたいと思います。


とってもまとまらない記事になってしまいましたが、本日もお読みいただいてありがとうございました。

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