見出し画像

ビルケナウの火葬場にガス室を併設しようと計画変更になったのはいつ頃か?/新文書の「特別な地下室」から読み解く。

今回の記事内容は、随分と前に翻訳したのですが、当時は内容の半分も理解しておらず、翻訳結果も、です・ます調と、だ・である調が混在していたりして、明らかにDeepLに任せっきりなのがすぐにわかるほど、不出来な翻訳だったのが記憶の片隅に残っていました(2022.8現在、そんな記事は他にも幾つもあるので、どんどん修正したいと思っております)。

さてその内容は、記事執筆者のセルゲイ・ロマノフ氏がある人物から新資料を入手したので、その資料の記述内容からビルケナウのクレマトリウムにガス室を併設するように計画変更になったのはいつ頃か?を読み解く、というものです。

私も過去、このホロコースト問題に取り組むようになった当初、ユダヤ人絶滅は最初から意図されて行われたものだと思っていました。ヒトラー政権は徹底的にユダヤ人迫害政策を実行していましたし、有名な絶滅演説なども行なっていました。それに何より、推定600万人もユダヤ人を殺害したので、そんな膨大な数、相当の計画を入念に練らないとできないはずだ、と。

しかし、色々と調べているうちに、いったいいつからユダヤ人の全滅を目論んだのかが、はっきりとはわからないことに気づきました。というか、そこがはっきりせず、さまざまな史料から類推していく他がない。そうこうしているうちに、歴史家たちの間で意図派と構造派と言った分類があることを知り、学者間でも色々と考え方が違ったりしていることを知ります。

その大きな要因は、ナチスドイツは、ユダヤ人絶滅を徹底的に極秘にやろうとしたことにあります。明確な文書証拠をあまり残していなかったり、ユダヤ人の絶滅についての表現を「特別処置」などと言い換えて、分かりにくくしたり、・・・従って、その分かりにくい史実の中身をどうにかして読み解いていく必要があるのです。

この翻訳記事では、比較的単純な内容ではあるものの、新しく入手した文書により、ビルケナウのクレマトリウムにガス室を設置するような計画に変更されたのがいつか? を読み解くと言う内容になっています。途中で計画変更されたことは、実は記事本文で登場するプレサックが『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』で初めて示したものです。

しかし、もちろん、否定派はこうした説を受け入れることは絶対にできません。「ガス室に変更されたのはいつ頃か?だって? そもそもガス室なんかない!」だからですし、「「特別な地下室」の「特別」は断じてユダヤ人絶滅を意味しない! そんな勝手な絶滅派に都合のいい解釈は許さん!」だからです。

なお、今回翻訳し直す(2022.8)にあたって、この全文と翻訳内容は全面変更していますが、翻訳後の私の文章は変えないことにしました。単純に、それなりにはまぁ、面白いこと言ってるなぁと思ったからですが(笑)

▼翻訳開始▼

ビルケナウの火葬場2号と3号の「特別な地下室」(ゾンダーケラー)に言及した新文書

ロシアのサンクトペテルブルクの軍事・医学博物館(Voyenno-Meditsinskiy Muzej)に所蔵されている資料の中から、パベル・ポリアン博士のご好意でいくつかの資料を提供していただいた。そのうちの一つは、ビルケナウの火葬場IIとIIIの地下室にガス室を設置するという決定の年代を確認するのに重要な文書である。

簡単な歴史的紹介と同時に、ホロコースト否定派がどのように捉えているかの分析も行う。

1. 「特別な地下室」問題の紹介

私たちは、ビルケナウの最初の二つの火葬場(IIとIII)が、当初は「通常の」衛生的な設備として計画されたことを知っている。それらの死体安置室は、1942年のある時期にガス室として使われ始め*、1943年のある時期に脱衣室として使われるようになった

1994年、ジャン・クロード・プレサックとロバート・ヤン・ヴァン・ペルトは、ビルケナウ火葬場2と3の地下室をガス室にするという考えは、1942年の10月末になってようやく検討され始めたと仮定している(J.-C. プレサックとJ.ヴァンペルト 、「アウシュビッツの大量殺戮の機械類」、I. グートマン、M. ベレンバウム編『アウシュビッツ死の収容所の解剖』1994年、223頁に収録)。

1942年10月末、中央建設管理部は、ブンカー1・2からのガス処分を火葬場の一室に移すことを検討しはじめた。
[...]
このような決定がなされたことを示す一つの指標は、「スリップ(註:秘密について「口を滑らせた」ことがわかる表現、という意味)」、すなわち、人間の大量ガス処刑以外に説明できない火葬場の異常使用に関する文書(文章、設計図、写真)への言及である。11月27日、ビショフの助手の一人ウォルターが、第二火葬場の死体に換気装置を取り付けるための金属加工の名人を依頼するためにトプフを呼び出したとき、この現象が起こった。正式な現場責任者である同僚のヤニシュは、この依頼を取り消した。ウォルターは、ビショフに何が起こったかを知らせるために、メモを作成した。このメモの中で、彼は、火葬場Ⅱの死体安置用地下室を「特別な地下室」(Sonderkeller)と指定した。「スリップ」はそれだけではない。12月10日から18日にかけて行なわれたビルケナウ完成に必要な120項目の資料目録のすべての文書には、「Re: Kriegsgefangenlager Auschwitz (Durchführung der Sonderbehandlung) 」、すなわち「Concerning: アウシュビッツ捕虜収容所(特別処置の搬出) 」という見出しがあり、殺害作戦について言及されていた。

後にデボラ・ダワークとロバート・ヤン・ヴァン・ペルトは、「変更」の日付を9月に移動した。 (『アウシュビッツ、1270年から現在まで』、1996年、324ページを参照)

「特別な地下室(Sonderkeller)」という呼称が実際にガス室のコード・ワードであったことは、技術者クルト・プリュファー(アウシュヴィッツのオーブンの設計者、ガス室の換気システムの計画にも参加したトプフ&ゼーネ社で働いていた)が1948.03.13にSMERSHによる尋問の際に認めた(USHMM RG-06.025*08 にコピーあり)。

火葬場の図面や、アウシュヴィッツ強制収容所のSS建設事務所とトプフ&ゼーネ社との間の公式文書では、ガス室は「死体安置所」、「特別な地下室」、「特別な目的のための浴場」などのコードネームで呼ばれている。

これは、プレサックとヴァンペルトが言及した文書である。

画像1
RGVA f. 502, op. 1, d. 313, l. 65.

しかし、このような「スリップ」は、実はこれが初めてではない。

まず第一に、プレサックとヴァンペルトが知らない、火葬場の「特別な地下室」に言及しているさらに以前のRGVA文書がある-1942年11月4日の建設報告**。

画像2
RGVA f. 502, op. 1, d. 24, l. 86.

しかし、この暗号を使ったもっと前の文書があることがわかった。

2. 新しい「特別な地下室」文書とガス室の年表に対するその意味

1942年9月15日、軍需相アルベルト・シュペーアとWVHA長官オズワルド・ポールが会談し、シュペーアはビルケナウの拡張に1370万RMの資金提供を承認した。(『ナチスドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人の迫害と殺害 1933-1945』、第16巻:「アウシュビッツ強制収容所 1942-1945年、死の行進の時代 1944/45年」2018、pp.168-9にあるヒムラーからポールへ(1942年9月16日)参照)。

1942年9月15日付のハンス・カムラーから建設業規制全権大使への手紙は、シュペーア-ポール会談について報告し、2つの文書が添付されていると述べている。

  1. 必要な追加構造物とそれに対応する工事量のリスト。

  2. 必要な建設資材やバラックのリスト。

手紙そのものはGARF(ロシア連邦国立公文書館)にある。

画像3
GARF f. 7021, op. 108, d. 32, l. 43.

しかし、この添付ファイルは同じファイルにはない。今回、初めて公開するのは、この2つのリスト(アーカイブ署名 0025407-OF の下に VMM に存在するもの、27-30 ページ、出典。ポリアン博士)である。

画像4
画像5
画像6
画像7

最初のリスト(必要な追加構造物とそれに対応する建設量)は、文脈のために与えられており、1942年10月28日の後の同様のリストと比較できる(F. フロイント、B・ペルツ、K・シュトゥルプファーラー、「アウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所の建設」、『現代史』、iss. 5/6, p. 202)。シュペーアに提示された1376万RMという金額は同じだが、具体的な項目の費用が異なっている。興味深いのは、3つの火葬場だけが言及されていることである。

2番目の文書(必要な建設資材とバラックのリスト)が重要なものである。こう始まっている。

特別な処置を行うためには、次のような兵舎を追加する必要がある。

収容所内の全バラックのリストは記載の通りである。

ここで一言注意が必要なので、少し回り道をする。RSHAの公式用語では、Sonderbehandlung(特別処置)という言葉は、ガス、銃弾、絞首台、その他の手段による処刑(ほとんどが超法規的処刑)を独占的に意味していた。しかし、この用語がWVHAのような他の機関に浸透すると、「一般化」されることもあった。この文書では、これは明らかに「ユダヤ人問題の最終的解決」と同義であり、その時点では、すべてのヨーロッパのユダヤ人を最終的には絶滅させるが、即時には絶滅させないことを意味していた。ユダヤ人奴隷労働の要素(したがって、労働に適したユダヤ人の大部分が一時的に生き残り、ほとんどのユダヤ人は永久に労働に適さないので直ちに処分される)は、この計画の非常に重要な部分であった。

したがって、このリストには、病院バラックや部隊バラックを含む、可能な限りのすべての収容所兵舎が含まれている。したがって、この文書では、明らかに、この用語は即時処刑に適用されるものではなく、むしろ、ヴァンゼー議定書に記述されているのと同じように、長い大量殺戮のプロセス全体に適用されるものであった。

同様の状況は、別の関連文書、すなわち、2つの消毒設備について言及している1942年10月29日の費用見積もり(フロイト他、op. cit、207 ページ)にも当てはまる―一つは特別処置(Entwesungsanlage für Sonderbehandlung)用、もう一つは部隊用である。周知のように、最初の消毒設備-後にZentral Sanuaと名付けられた-は、大量処刑に直接使用されることを意図したものではなかったので(別に列挙された火葬場はそうであった)、ここでの「特別処置」は、収容所内のユダヤ人奴隷労働力と財産の活用を含む、同じ一般的意味で意味されていることは明らかである。したがって、プレサックとヴァンペルトが言及した一連の文書の中で「特別処置」について言及することが、大規模な「スリップ」に当たるかどうかは、解釈の問題である―また、シュペーアのようなRSHAやWVHAの外部の人々にとって、この用語の両方の完全な意味(より具体的なものとより一般的なもの)が常に容易に理解されたであろうかどうかは定かではない。(前回、用語の問題についてはここ日本語訳)とここ日本語訳)で取り上げた)。

バラックのリストに続いて、「大規模仮設建築物」と呼ばれるもののリストがある。その中には、以下のようなものがある。

  • 「特別な地下室を持つ火葬場I[Sonderkeller]

  • 「特別な地下室を持つ火葬場II」

  • 「2つの8マッフル焼却炉」

興味深いのは、火葬場IIIとIV(別の表記ではIVとV)が明示的に登場せず、その炉が1行にまとめられていることである。 何らかの理由で1つの火葬施設として表示されたのかもしれない(したがって、前回のリストでは「3つの火葬場」があった)。実際、2基の8マッフル炉をモギリョフからアウシュヴィッツに移すことが決定されたのは8月半ば(註:原文にはリンクが貼られているがリンク指定をミスっているので省略)であり、火葬場IVとVの8月の計画を確認する文書日本語訳)があるものの、この初期の段階では、まだ不確実な点があったかもしれない。

したがって、この文書では、火葬場IとII(別の命名法ではIIとIII)の両方が、それぞれ一つの「特別な地下室」を持っていたことがわかる。すなわち、ガス室は1942年9月14日の時点で計画されており、したがって、プレサックとヴァン・ペルトが提案したこれらのガス室の起源の日付を遡らせ、ダワークとヴァン・ペルトが採用した日付を確証しているのである。

3. 「特別な地下室」とホロコースト否定

ここで、ホロコースト否定派のカルロ・マットーニョ(以前から知られていたSonderKeller文書についてある程度詳しく取り上げた唯一の否定派)が、この暗号をどのように解釈したかを見てみよう。

『アウシュヴィッツ:伝説の終焉』(G.ルドルフ編『アウシュヴィッツの事実、ジャン・クロード・プレサックへの応答』2016年)に掲載されている)では、彼は単に注意しているだけである(同書176頁)。

死体安置所1に適用された「特別な地下室」(Sonderkeller)という用語(60頁)は、「特別」で始まる他の類似の用語と一致しており、これらはすべてチフスとの戦いに関連している。

他のいくつかの著作では、マットーニョは小さなセクション全体をこのコードワードに割いている。彼はこの部分を本から本へと単純にコピー・ペーストしているので、『アウシュヴィッツの真の事件』(2015)、80頁以降に印刷されているものを扱うことにする。

まず、マットーニョは(関連文書を引用して)、1942年11月28日の文書の見出しは「火葬場」となっているが、その内容は一つの火葬場--II--を指しているにすぎない、なぜなら、その地下室だけが十分に進んだ建設段階にあって、約1週間後にはその天井ができあがるからである、と反論している。これは、当初はもっともなことである。

このことから、彼は、文書中の複数形の「Sonderkeller」は、火葬場Ⅱの二つの死体安置室を指しているに違いないと結論し、犯罪の痕跡としてのこの単語の使用を否定している。

一方、「脱気装置」が計画されていた火葬場Ⅱの地下室は、「Leichenkeller 1」 と 「Leichenkeller 2」の二つであった。前者は「Belüftungsanlage」(曝気装置)も備えていたが、後者は「Entlüftungsanlage」(脱気装置)のみで、1943年3月15日から21日の間に設置された。したがって、ウォルターのメモにある「Sonderkeller(複数)」は、いずれも火葬場Ⅱの「Leichenkeller(複数)」であったことは明らかであろう。この半地下の部屋は「Sonder」と呼ばれ、半地下を構成する6つの部屋のうち、人工換気を備えた唯一の安置室であったからだ。

しかし、これは成り立たない。電話に関する通知であったということを考慮しなければならない。この通知書はウォルター自身がタイプしたものではなく、L.という人物(この頭文字はコードに現れている)がタイプしたもので、おそらく秘書であろう。L.が誰であったかは分からないが、まさにこの文書の特別な地下室を扱った部分に粗雑な文法の間違いがあることは分かっている(「über den Sonderkellern」の与格ではなく、「über die Sonderkeller」の対格 )。(L.はまったくネイティブ・スピーカーだったのだろうか?)。

次のような伝達の連鎖がある。プリュファーとウォルターは電話で話し、ウォルターは L に通知を口述する。

プリュファーの発言にウォルターが誤解した部分があったのでは? プリュファーはSonderkellerという言葉を正しく(死体安置所1を指すためにのみ)使っていたが、ウォルターはおそらく専門用語に十分精通していなかったので、確かに両方の地下室を指すために使ったのだろうか? ウォルターは、クレマIIIがまだ完成していないにもかかわらず、通知の見出しにあるように、両方の火葬場について誤って考えていたのだろうか? あるいは、Lはウォルターが地下室に関して語ったことを十分に理解していなかったのだろうか?(たとえば、見出しに「火葬場」と複数書かれていたため)

マットーニョの解釈を受け入れるには、未知の部分が多すぎるのである。

しかも、マットーニョの説明は筋が通らない。地下の死体安置所は機械的に換気する必要があったに違いない。これは、決して特別なことではない。換気は想定内だった。マットーニョは、「Sonder-」の使用について、もっともらしく説明することができない。

いずれにせよ、マットーニョの主張がもたらした解釈のあいまいさは、私たちが今公開している文書によって破壊されている:火葬場IIとIIIには、確かに、それぞれ一つの特別な地下室しかなかったのである。

火葬場IIにそのような地下室が一つしかなかったことは、マットーニョ自身が発表した1942年11月4日の報告(上記の紹介を参照)ですでに明らかになっていたので、彼はそれを説明しようとしているのである。

「特別な地下室」が「Leichenkeller 1」であったと主張することは可能だが、その「特別」な使い方は犯罪的なものだったのだろうか? [...]もし、火葬場Ⅱの「特別室」が火葬場Iのものとされる殺人ガス室になる運命にあったならば、ZBLは、「Leichenkeller 1」の鉄筋コンクリート天井に、チクロンB導入のための開口部を設けることを、すでに、天井が敷かれた段階で計画していたことだろう。しかし、そのような開口部を持たない天井が実現された。[126]したがって、ZBLは、「Leichenkeller 1」を殺人ガス室に改造することを決定したとき、この部屋には防水床しか敷かれておらず、開口部(チクロンBを使う殺人ガス室の必須要素)がない天井で覆っていたが、後になって、ハンマーとノミを使って、この厚さ18センチのコンクリートのスラブにチクロンB用の開口部を4つ開けたと言われているのだ! プレサックにとって残念だったのは、ZBLのエンジニアがそれほどバカではなかったことだ。[…]したがって、「Sonderkeller」(特別な地下室)という言葉は、「Leichenkeller 1」が曝気・脱気装置を備えており、おそらく、プレサック自身が仮説しているように、「腐敗し始めた数日前の死体を入れる」予定だったので、部屋が十分に換気されていなければならなかったという事実で容易に説明できるだろう。
[126] これは、火葬場Ⅱの「Leichenkeller 1」の外側を写している1943年1月に撮影された「カマン」シリーズの写真に見ることができる。APMO, negative no. 20995/506。参照:プレサック1989、p. 335.

マットーニョは、カマン・シリーズからの、将来のガス室/死体安置所1の雪に覆われた屋根を写した写真に依拠している。彼は、ガス室の天井がチクロンB導入口なしに実現されたことを示すものであると、何の論拠もなく主張している。

画像8

この結論に至った経緯は明らかではない。導入煙突がないことだけが写真から明らかで、開口部については写真からは何もわからない(この角度では開口部の有無を結論づけることはできないし、別の角度で撮影した写真でも、地下室内の雪の堆積を抑えるために穴が何らかの素材で覆われている可能性があるので、必ずしも一方的な結論にはならないだろう)。

チクロン導入孔は、天井の工事中に作られたことが分かっている(D. ケレン、J. マッカーシー、H. マザール、「ガス室の廃墟:アウシュヴィッツIとアウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場の法医学的調査日本語訳)」『ホロコーストとジェノサイド研究』2004年、18巻、1号、75頁。)。

屋根の下は厚いコンクリートで、その上に防水用のタール紙を敷き、さらにその上に薄い砂のコンクリートで覆っているのである。中層は、防水性を確保するため、タール紙の上にタールを刷毛で塗る必要があった。穴の縁のコンクリートは、下層の数センチメートルがそのまま残っているだけで、その一角を注意深く調べると、縁にタールが塗られた跡が2つはっきりと残っている(図11b、右)。これは、屋根の施工中に、防水の段階ですでにコンクリートに穴が開いていたことを示している。

画像9

余談だが、マットーニョはケレンらに対する反論で、この証拠を無視している。

マットーニョはこうして愚かな藁人形論法を構築し、彼の論法はそれで崩れてしまった。

また、マットーニョの説明が文書によってご都合主義的に変化していることにも注目したい。あるケースでは、すべての換気された地下室を「特別な地下室」と名付けることができると考え、別のケースでは、1種類の換気されている地下室(排気と給気のある)だけを特別な地下室と指定することを望んでいるのだ。しかし、このように多くの意味がある中で、中央建設事務所がどのような地下室を指しているのか、どうやって認識したのだろうか。

マットーニョは、Sonderkellerは単に腐敗の進んだ死体のための給排気口のある地下室のことだと主張するが、これもまたもっともらしくない。この地下室の呼称(B-Keller)が用意されていたので、想定される「特別性」を強調する用語は必要なかっただけでなく、それ以外の簡潔な新しい版の文書***の中で「特別な地下室」が強調されていることは、ガス室としての新しい機能(これは後の文書でも確認されている)によってもっともよく説明できるのである。


巻末資料

*我々は、火葬場IIとIIIの死体安置室が最初からガス室として計画されていたというマイケル・サド・アレンのテーゼを否定する(M. アレン、「細部に宿る悪魔:ビルケナウのガス室、1941年10月」、『ホロコーストとジェノサイド研究』、2002年、16巻、2号、189-216頁)。ガス室が最初から死体安置所に計画されていたのであれば、ガス室の排気口が下に置かれていたことをもっともらしく説明することはできない--これはガス処刑にとって逆効果である(死体は、通風孔を塞ぐ可能性がある。HCNは空気より軽いので、大量ガス処刑の場合、そのほとんどはとにかく部屋の上半分に集中したはずである。したがって、上方に供給空気、下方に排気という実際の最適でない通気口の配置は、通常の死体安置所からガス室への直前の計画変更と最低限の再計画努力でしかもっともらしく説明できない)。

アレンは、アルト・ドレヴィッツの害虫駆除装置との類推によって論じようとしているが(害虫駆除ガス室の「論理」は、犠牲者の存在によって自動的に殺人ガス室に移行できるわけではないので、それだけでは説得力がない)、この熱風害虫駆除室をチクロンBのものと混同しているので、失敗しているのである。壁にダクトを設置しても、殺人ガス室ではダクトはどの高さにも設置可能であったので、犯罪の痕跡を証明するものではない。殺人ガス室では、ダクトは犠牲者の手の届かない任意の高さに設置できたので、壁に設置する必然性はなかった。しかし、半地下の死体安置所(冷たい汚れた空気を下から排気するのが理想的で、死体安置所内の床にダクトを設置することは、貴重な収納スペースを奪い、破損しやすいため、当然できない)にとっては、当然の解決策となった。アレンのテーゼは、プレサックとヴァンペルトが指摘した「殺人的」な方向への漸進的な変化を説明するものではない。アレンは、裁判での加害者のいくつかの防御的な証言に訴えているが、火葬場の計画がガス室を含むように変更されたと主張したルドルフ・ヘスの証言には触れていない(1946年04月01日の尋問プロトコル、P.27)。この論文はいかなる文書によっても裏付けられておらず、1941年10月にナチスがアウシュヴィッツに巨大なガス室を持つことを望んだ理由(たとえば、捕虜のため)をその場しのぎで説明できるかもしれないが、このガス室の存在は、当時の出来事や政策から有機的に必然化されたものではない。

**私たちの知る限り、この文章を最初に引用したのはホロコースト否定論者のカルロ・マットーニョである。

***たとえば、「地下室」のある倉庫もリストの後半で言及されていることに注意してほしい。文書では、地下室の存在だけが役割を果たしていれば、火葬場についても同じであっただろうが、火葬場については、特殊な地下室だけが強調されており、地下室エリア全体が強調されているわけではない。

投稿者:セルゲイ・ロマノフ@2018年12月09日(日)

▲翻訳終了▲

否認派は、コード言語を普通は認めないんですが、何気にマットーニョ先生は認めるんですね。違う意味になってますけど(笑)。マットーニョは頑張りすぎでネタに困ってんのか、なんでも反論する人のようですけど、何もこんな話題にまでついてこなくてもいいのに、と思います。そもそも論的になりますが、「Sonder-」はナチスが特別な意味を持たせていたことは否定しようがないわけです。ゾンダーコマンドがそうなわけですし。隠したいことを「特別な」というように呼んでいるわけです。要するにバレバレすぎてそもそも隠語になってない。

ところで、今回の翻訳は、おそらく他の議論を知っていないと、若干わかりにくいところがあり、特に、マットーニョの「Sonderkeller」の解釈を反論する部分で「文法が誤っている」とはなんのことかさっぱりわかりませんでした。が、それに続く写真のところで、この記事とはあまり関係のないことを思い出しました。あんまり相手にしたくないサイトなのですが、以下です。

この記事をスクロールしていくと、クレマトリウムの外観を写した同じ写真が出てきます。この記事自体は、噴飯物であることは以下の二つの記事を参照すれば概ねわかります。

アホだなぁと思うのは、例えばこれ。

スクリーンショット 2020-10-23 23.57.06

この人、はっきり下に撮影日を自分で入力してるんですよね。この時期、まだここは建設中なのです。そして、この写真の前にページに掲載している写真がこれです。

スクリーンショット 2020-10-24 0.01.31
スクリーンショット 2020-10-24 0.02.21

ここにもこの著者自身で撮影日をきちんと入れておられます。もう一度言いますけど、1943年1月〜2月はまだ工事中なのです。他のことについては、私からいう必要もないと思いますが、上に紹介した私の以前の翻訳記事で子細は判明しているので、ご確認ください。いずれにせよ、工事中なので、煙突が1月になくても別になんの不思議もありません。いつ作られたのかは記録がないので知りませんけど、位置も解説通りでピタリあってますので、何も問題はないでしょう。

で、ついでに思い出したんですけど、この人の他の記事でこんなにもありました。


スクリーンショット 2020-10-24 0.09.08

このデビッド・オレールの絵に文句つけてるんですが、曰く、

焼却棟Ⅱ・Ⅲのガス室は地下にありますから、地上の焼却炉が同じ部屋にあるわけがありません。
つまり、この絵は焼却棟Ⅲではないということです。

なのだそうです。この人は、遺体をエレベーターで燃焼炉のある地上フロアまで上に上げていたということを知らないんだそうです。つまり、エレベーターホールに遺体をいったん下ろして、そこから燃焼炉に運んでいたわけですから、エレベーターホールにある程度溜まっていても不思議は何もありません。何れにしても、この人が何を言っているんだか意味がわかりません。どう考えても、ガス室が地下にあって、燃焼炉が地上階にあるのであれば、一旦遺体をどうにかして上に上げる必要があるわけです。

他にもたくさんアホなことが書いてあるのですが、これをやり始めるときりがなくなるのでやめます。興味ある方はご自身で突っ込んであげてください。ほんとに、否認論は突っ込みどころばかり(正直それしかない)なのです。ルドルフは燃焼炉のサイズがおかしいとか言ってますが、アホですか。オレーレの絵に正確さを求めるのはそこですか?ならば、マッフルのレンガの数まで一致させないといけませんね。マッフルにあったはずの扉も書いてないし、オレールに「もっと正確に思い出しなさい!」と叱らないといけないですね。……とまぁ、呆れるほどバカです、この人たち。

誰がどう見ても、写真のような正確さはこの絵にはありません。そうではなく、この絵の正確さは、例えばマッフル炉に入れている遺体が複数積み重ねてあり、大人の遺体は二体で頭と足が交互になるように重ねてあり、さらに子供を積んでいて、一度に入れられるだけのたくさんの遺体を工夫して入れようとしていたことや、マッフルまで運んできた遺体の向き、既に述べたようにエレベーターホールにいったん遺体を積み下ろししていること、あるいは床がピカピカに磨かれていること(おそらく、水を撒いて遺体を運びやすくしていた)、そうした部分のリアルさにあるわけです。これらは、その場を経験した人でないと絶対にわかりません。

結局は、オレールの絵も一つの証言であり、否認派がやっているのはそれら証言の重箱の隅つつきでしかないわけです。ほんとにバカだと思います。

ではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?